その一 ショコラとプッチ
ショコラとプッチはまだ暗い午前三時ごろに……
その一 ショコラとプッチ
◇
――ウンチだ――
ショコラの目の前で青緑の奇妙な犬が、地面を嗅ぎまわって――文字通り円を描くように、クルクルと何度も何度も回っていた。
この前動作は完全にプッチの『ウンチがしたい!』というアピール行動だった。
ひとしきりクルクルと回った後、ショコラに向かって「クゥフゥゥ~ン」と鼻で鳴いた。そしてつぶらな瞳でじっと見つめてくる。口には羊皮紙の帳面を咥えているため、目で訴えようという魂胆だ。
「はあ、はあ……プッチ、……我慢……、できないの⁉」
ショコラは息を切らしていた。
それもそのはず、ショコラとプッチは追手から逃げている最中だったからだ。
それも、悪名高きブラック・ホーク騎士団領の女王、ブラッディ・メリーから!
メリー女王は『まゆつば』な妖術に傾倒し、永遠の若さを保つためと称して、国内外から見眼麗しい乙女たちをさらい集め、その生き血を飲み、生皮をはがして美容パックとし、臓物で敷き詰めた風呂に毎夜毎晩入っていた。
そんな鬼女にショコラは捕まっていたのだ。そんなの逃げるに決まっている!
ショコラとプッチはまだ暗い午前三時ごろに脱獄を決行し、追手から隠れつつ、走っては休むを繰り返して、やっとのことで森の中に逃げ込んだ。……もう時刻は朝の六時ごろにはなるだろう。
空は薄っすら明るくなって、追手の気配が遠のいてから小一時間は過ぎようとしていた。ショコラは『もうそろそろ大丈夫だろう』と思い始めていた……。
プッチから帳面を受け取ったショコラは――無論よだれでベタベタだったが。アイコンタクトでプッチに排便の許可を与えた。
「ワン! ワン! ワン! アォォオ~ン‼」
と、プッチは嬉しそうにクルクル回転しながら飛び跳ねると森の茂みに消えた。
「……本当にあれがわたしの使い魔なのか……」
ショコラは遠い目をして思わずつぶやいた。情けないやら悲しいやら……。
◇◇
「キャイ~ンっ‼」
茂みの奥でプッチの悲鳴が聞こえた。
一気に神経がそばだった。
『――見つかったっ⁉』
ショコラがそう思うが早いか、茂みから大きな人影が現れた。
それも何体も!
そしてあっという間に目の前に人垣が建った。
「よくもここまで手こずらせてくれたな。お嬢ちゃん」
「お前のような上玉を、奥方様が逃すわけねえだろ」
吐き捨てるように男たちが言った。
男たちはみな髭面で、黒衣にワーグ(巨狼)の獣皮の胴巻きをつけていた……。
『アサシン(暗殺団)だ――』
ショコラはまさか、逃げた女一人にアサシンまで差し向けるとは思っていなかった。
騎士団領で最も恐れられる男たち。少なく見積もって……20人(!)もの手練れをたった一人の小娘に。
「オーホホホホホ! ケガをさせてはならぬぞヨ。その娘の血の一滴、生皮一枚残らず、妾のものなのじゃ!」
人垣が割れ、その奥の影から女の声が響いた。
ショコラは聞き覚えのある声の主に、恐る恐る目をやった。
そこには紅の長衣に、宝玉の冠、金銀の装具で着飾った――おおよそ森の中には場違いな恰好で、プッチの耳を片手で掴み上げて高笑いをしている女の姿があった。
――ブラッディ・メリー……!
◇◇◇
「ゲーヘッヘヘー。残念ながら俺たちゃ、傷一つつけるなと言い付けられてんだ」
「じっとしてろよお嬢ちゃん。へへへ」
下卑た薄ら笑いを浮かべて男たちがにじり寄ってきた。『女を襲う暴漢がよくやる行動と言動だ』と、人類が誕生してから何万回と繰り返してきたであろう場面の再現に、ショコラは思わず苦笑した。
「……メリー女王。……あと一歩で町まで逃げられたというのに……とても残念です」
ショコラが発した声だったが、妙に落ち着いた声音だったので、メリーはややあってからそれに応えた。
「……ホホホ。観念したのか? お前のような玉の肌の娘は初めてじゃ。生きたまま綺麗に皮を剥がしてやるぞヨ」
「メリー女王。追手はここにいる方たちですべてでしょうか?」
「ホーホホホ。そうじゃ。20人もの手練れの男を用意してやったのじゃ。光栄に思うが良いぞヨ」
「……20人もの手練れの男。……わたしを見逃してくれていれば、全員死なずに済んだものを――」
「? ……何じゃ?」
――《アグナード バルナード 地から成るものはみな 火と燃え塵となり 土へと還れ!》
「? あぐ……ばる……何じゃ? 神頼みかや?」
――《アドン(爆炎)‼》
ショコラの一声で天地が裂けた。
巨大な閃光と衝撃と轟音がいっときに炸裂し、男たちがいた空間そのものをえぐった。
圧縮された業火と熱風はすさまじい力で大地を焼き、草木は根こそぎ四散した。