16 現世で
「……………」
自分は一体どこにいるのだと考え、エステルのいる洞窟に戻ってきたのだと気づき、ゆっくりとその身を起こして額に手をあてた。
「はあー……」
よく寝たからだろうか、頭は比較的すっきりしている。身体だけがギシギシと痛い。関節を回せばパキパキと音が鳴った。
何やら幸せな夢を見た。夢の中でも、愛しき者達に逢えるということは嬉しいものだ。
「エド兄上、ディー兄上。ボニー…。どうか、安からに…」
ぐっと指を組んで愛しき兄弟に祈りを捧げた。
きっとまた夢でも逢える。そう思うことにした。
長い祈りを終えた後、暗い部屋の中を見渡す。
ぼんやりとしたランプは、前の時には一つだけだったが、今は部屋に三つあるせいで、随分と部屋の中が明るい。きっとモーリッツが来たせいだろうと予想がついた。以前エステルは「暗いと兄が転びますので」と笑っていたから。
「ん……?あれは…」
机の上に手紙が置かれていることに気付き、よっこらせと言わんばかりの調子でベッドを抜けた。
もしかしてエステル宛てか?と思ったが、エステルは目が見えないから違うだろうとすぐさま否定する。となれば、やはりこれは自分宛だ。
「……モーリッツ…」
手紙はやはりアリヴィアン宛で、差出人はエステルの異母兄・モーリッツだった。
今は膠着状態が続いているが、戦時中には変わりない。故に自分は屋敷に戻ると。またアリヴィアンの体調の事にも書かれていた。どうやら大変お疲れの様子、温泉でじっくりと休んでくださいとだけ。
あの兄は、人がいいのか悪いのか分からない。いや、なかなか腹に抱えているものは真っ黒だったが。
しかしドアの前でズルズルと寝るようにして意識を飛ばしたアリヴィアンをベッドまで運んだのは、明らかにモーリッツだ。小柄なエステルには無理だろうから。
自分を殴り飛ばした男なんて無視したいだろうに。少なくとも、アリヴィアンならばそうだ。愛しく思う異母妹の前だから恰好付けたかったのか分からないが、手紙には端々までアリヴィアンを気遣うことしか書かれていない。
(王都に帰ったら、礼でもするか…。気は進まないけどな…)
モーリッツとエステルと。特にエステルには怪我の介抱から沢山世話になった。だからそれなりに礼を尽くす必要はあるだろう。
(礼を尽くして…。尽くした先は……?)
ふと言いしれない虚無感が胸に押し寄せる。
愛馬を取りに来るという約束で、再びこの地を訪れた。だがその約束が果たされれば、もはやここに来る理由もない。温泉を理由にして来るということもできるだろうが、王太子になってしまえば、騎士だった頃よりも外出にはずっと制限がかかる。
溜息をつきたくなる気持ちを振り払うように部屋の外へ出てみた。扉の先は、見知った暗い洞窟の廊下。
「エステル…?いるか?私だ」
向かい側のエステルの部屋のドアをノックしても返事はない。調理ができる部屋や、物置として使われているいくつもの部屋を廻ってもエステルの姿はなかった。
こうなったら洞窟の外だろうかと思案し、結局アリヴィアンはランプを手に持って洞窟の長い廊下を歩いてみることにした。
外は明るく、気持ちの良い光が辺り一面を照らしていた。山の空気は気持ち良く、緑の木々も目に優しい。
何かを採集しに行ったか、もしくは自分の馬の世話でもしていたか。
けれども洞窟のすぐ傍に愛馬の姿があったから、馬の世話ではないようだ。アリヴィアンを見つけると愛馬はすぐに寄ってきた。
「久しぶりだな」
アリヴィアンは自分の馬に名前を付けない主義だ。騎士であるから、いつ死んでもよいようにと、自分のモノを極力持たないようにしていた。
だと言うのに、エステルはこの馬に「クロ」などと名付けていた。愛馬は白で、黒でも何でもないだろうが。
どうもエステルの中のアリヴィアンの全ての印象は、「黒」らしい。実際は金髪碧眼、馬は白、着ている者も王太子らしい白色で豪華な服なのだが。しかし黒の要素が一つもないのに、なぜ黒なのだと首を傾げる。
「馬の傍にいないとなれば採集か…?」
目が見えないというのに、食べられる木の実などを匂いで判断できるのは流石だと思う。
洞窟内でエステルを待っていても良かったが、天気の良い日の山を散策してみたくて、アリヴィアンはさくさくと先へ進んだ。
そこに出てしまったのは、決して意図したわけではない。
「あ…この先に温泉があったな」
アリヴィアンもエステルも、そしてモーリッツも虜にしたこの山の魅力の一つ。暖かい天然のお湯が出る、天然の風呂だ。
後でゆっくりと浸かりたいと思いながら草をかきわけて温泉の場所へ出れば、そこに探していた人がいて。
「っ………!!」
思わず腰を抜かしそうになった。騎士たるもの、予想していなかった敵が出現しても体が身構えるように反応できているが、今回のそれはあまりにも不意打ちだった。
温泉にいたのは、エステルだった。
全裸で湯の中で立ち、髪や体を丁寧に磨いている。濡れた黒髪がとても美しい。洞窟の中に始終いるせいか、肌は驚くほど白い。濁った瞳は空を見つめ、その表情は非常にリラックスしていた。
「…………」
アリヴィアンは黙ってエステルのそんな姿を見つめていた。
淑女の入浴を盗み見るなど紳士たるものしてはいけないことだろうが、どうしたって目を離せないでいたのだ。
どこにでもいる顔つきなのに、今は頬が赤くなってとても可愛い。指が髪を梳いて、毛先が湯の中へ落とされる。小柄な体つきのわりに、放漫な胸、意外にもしっかりした腰回り。
そんなエステルの姿を、ただの女の裸だとは思えずにアリヴィアンは少々動揺した。
(まるで女神だな…)
なぜだろうか、この女の前では己の全てを曝け出してしまえそうな気がした。
どんなに恰好悪くても、どんなに無様な自分の姿でも、エステルならば黙って受け入れてくれそうな気がした。
何度目だろうか。
男ならば、女のように泣くのはみっともないと、そう思っていたアリヴィアンだったのに。
目の奥がツンと熱くなり、一筋の涙が流れたのだった。