15 再会と夢の中
「エステルは、お前の欲を満たす道具ではないっ!」
洞窟の中にアリヴィアンの声が響き渡ってこだまする。
地面に転がったモーリッツは、ゆっくりと立ち上がってランプと荷物を整えてからアリヴィアンに向き直った。
「それも勿論知っておりました。けれど、己の欲に勝てないこともあると殿下は知っておくべきです」
「何を…!」
「むしろ殿下の方がご存じでは? その美しいお顔につられて、数々の女性達が淫らな行為を誘ってきたというのは有名な話です。女性達は自分の欲望を満たすために殿下に近づいたのでしょう?」
隠したい、恥ずかしい話だ。アリヴィアンは再びモーリッツの頬を殴りたくなったが、流石に堪えた。
(冷静になれ…!こんな男の話に乗ってやる必要はない)
小さく深呼吸をして、モーリッツを真っ直ぐ見ると、モーリッツもニヤリと笑い、アリヴィアンを見つめる。
「私の事はどうだっていい。ここでは関係ない。私は、お前のその態度も考えも全て気持ち悪いだけだ」
「……でしょうね。殿下のような、高貴なお方は僕のような下衆な男の事なんて理解できないでしょう」
「………ここで話し合っても仕方ない」
これ以上話したくはない。ただでさえ一日半前に女官に夜這いをされかけたのだ。その類の話をすることは非常に疲れる。
モーリッツは何か言いたげな顔をしていたが、結局その口が開かれることはなく、ただ黙って暗闇の洞窟を先へ、先へと歩き続けた。
***
「エステル。僕だよ」
「! 兄さま?」
ようやく見慣れた扉に着くと、モーリッツは軽くノックをした後で部屋へと入っていく。
エステルの柔らかい声が耳に入り、アリヴィアンの心臓は少しだけ跳ねた。
「いらっしゃい。それで?今日はなんの食材を持って来てくれたの?」
「早速それか…。今日は人参と玉ねぎと…」
まるで庶民の夫婦がするような会話を和気あいあいと目の前でされ、少し居心地が悪くなる。
モーリッツは、エステルの前では優しい兄を演じているようで、先ほどアリヴィアンの前で見せた狡猾で変態な男の顔を今は見ることができない。
ドアの脇から中を見れば、エステルは楽しそうに笑っている。
いつもの明るく前向きで、元気なエステルだ。
笑いかけている相手が、兄とは言えモーリッツなのが気に入らないのだけれども。
「エステル……」
兄妹の会話を切るつもりはなかったが、アリヴィアンが呟いた声は思いの外部屋に響き、エステルは驚いた表情をこちらに寄越してくる。
「その声は…まさか、騎士様?」
モーリッツから渡された食材が入った籠をテーブルの上に置くと、早足でこちらに寄って来る。
その白く細い手がアリヴィアンに伸ばされて指が頬に触れると、エステルはその指を瞬時に引っ込めた。
「やはり騎士様ですか! 良かった…無事だったのですね! 心配したのですよ」
「……ああ……」
「騎士様のお馬ちゃんも元気ですよ! あ、お馬ちゃんって呼ぶのも味気ないなって思ったので、名前を付けました! 私の予想では逞しく強い騎士様に似合う黒馬かなって予想していたので、クロなのです!」
「……そのままだな…」
因みにアリヴィアンの馬は白色だ。真逆の色を想像し、そして安直な名前を付けたエステルのセンスに笑う。
「前々から思っていたが…エステルはよくしゃべるな」
「え!? ごめんなさい、もしかして煩かったですか!?」
「いや…、お前のそれは…気にならない…」
その後は言葉が出てこなかった。
寝不足と疲労、一日半かけての乗馬で身も心も限界に達していたアリヴィアンは、その場で座り込んで寝てしまった。気を失ったとも言っていい。
エステルとモーリッツの声がしたが、ほっとしたせいか、アリヴィアンはそのまま深い眠りへと入っていった。
***
アリヴィアンは暗闇の中で一人立っていた。
洞窟の中にいるのかと思ったが、どうも様子が違う。ここは洞窟ではない。真の闇の世界だ。
『アリヴィアン』
そんなアリヴィアンを呼ぶ声がして、思わず身を震わせた。恐怖からではない。その声が、知った者の声だったからだ。
『エド兄上……』
振り返れば、王太子だったエドアルドとディートリアンと、弟のボニファーツがそこにいて。
会いたかった愛しき兄弟の姿に、アリヴィアンは目の奥が熱くなる。
『大丈夫か? 少し無理をしすぎたな。ゆっくり休め』
『そうですよ! 兄上は周りが見えなくなって突っ走る傾向がありますからね』
第二王子のディートリアンとボニファーツの柔らかな声が耳に届く。アリヴィアンは堪らず、兄弟たちに抱き着いた。
『会いたかったです…!エド兄上、ディー兄上、ボニー…!』
『…突然逝く私達を許してくれ。重いモノを背負わせてしまう』
『いいえ…!いいえ…!兄上たちを失った悲しみに比べたら、このくらいは…!』
『そういうところが無理しているって言うのだよ』
エドアルドは優しくアリヴィアンの頭を撫でた。もうすぐ二十四歳になろうというのに、子供のように撫でられて慰められるなんて…と少し照れてしまう。しかし嫌な気分ではない。
『アリヴィアン、私達はお前の幸せを願っているよ』
『そうですよ! 僕たちは本当に兄上の心配をしているのですからね! よく寝て、よく食べて!それから働いて下さいよ』
『…はい』
苦笑しつつ、エドアルドとボニファーツに頷くと、もう一人の兄のディートリアンはニヤリと笑う。
『そうそう、可愛らしいお嫁さんを迎えることもね。お前は王太子になるから、妻となる王妃になる女性選びは苦労するだろうけれど。でも心から愛する人を見つけたら、絶対に逃さないようにね!』
ディートリアンの助言に一瞬面食らった顔をしたが、アリヴィアンは小さく頷いた。
そしてお嫁さんという言葉がディートリアンから出てきて悲しくなった。
『ディー兄上……。本当に申し訳ございません…!兄上とバルバラ義理姉上を引き裂いてしまったこと…!』
ディートリアンとバルバラは新婚で、とても仲の良い夫婦だった。
死んでしまったディートリアンを想ってバルバラが泣き叫んだ姿を、アリヴィアンはしっかりと見ている。
だがディートリアンは笑って言った。
『そのことか。でも…まあ、そのことは気にしないで』
あっけらかんと言われてアリヴィアンは絶句した。恋人を失って嘆くバルバラを気にしないでなんて言うなんて。反論しようとしたアリヴィアンに、ディートリアンは照れたように笑った。
『全くねえ…バルバラも馬鹿だから。この私が好きすぎてね』
『は?そんな事は知っていますよ…だから…義理姉上の嘆く姿を見ていられなかったんです』
『さっきから何を言っているのか。アリヴィアン、よく見なよ。バルバラならばここにいるよ』
『え!?』
そう言われて顔をあげれば、ディートリアンの後ろにいたのは頬を赤くさせたバルバラで。
ディートリアンも新妻の腰に腕を回し、そっと引き寄せてキスをした。
『バルバラと私はいつでも一緒にいるさ。だからアリヴィアン、お前が気に病むことはないよ』
『…………』
言葉を失ったアリヴィアンに、ディートリアンもバルバラも笑う。両隣では、少しだけ居心地が悪そうにエドアルドとボニファーツが苦笑していた。
『最後の最後までいちゃつくディー兄上とバルバラ姉さまって……』
ボニファーツは、ふうとあさっての方向を見ながら苦笑いをする。エドマンドは両手を上げてアリヴィアンに『この二人のことは気にするな。いつもこんな感じで甘すぎる』と冗談をかました。
『また逢えたらいいね。夢の中ででもさ』
それがお別れの言葉だと知り、アリヴィアンは泣いた。
ここが夢ならば、泣いても許されるだろう。そう思って、アリヴィアンは声を上げて泣いて叫んだ。
『…はい…!また逢いたいです!逢いに来てください!エド兄上、ディー兄上、ボニー…』
四人の姿は次第に薄れていく。
また逢いたい。夢の中ででもいいから、また皆に逢いたいと。そう思いながらアリヴィアンは目を閉じる。
そうして目覚めれば、暗闇の中に存在する、ランプの光が目に入って来た。