第2話 神に見捨てられた男
永遠の命というものに憧れる人間は多い。故に不老不死を求めて古代より多くの犠牲と時間が費やされた。
一方で、不老不死を真っ向から否定する人間も少なくない。ほとんどは自身の信仰する教義に反するから、というのが理由だ。
不死者である吸血鬼の存在についても古くから語り継がれてきたが、多くは人々の信奉する神がそれを否定した。だから詳しく知る者はあまりいない。
ギード・ジブソンもまた過去には敬虔なクリスチャンで、働いて得た金は自分が食べる分を除けば全て教会へ。余暇があれば助けが必要な人の元へ向かう、そんな生活を送っていた。
だからギードにとって吸血鬼は悪魔か悪魔の手先であり、人間を惑わせるものに他ならなかった。
「ああイネーズ。躊躇なく人間を殴り倒すなんて、強くなりましたね」
サテンの赤いアスコットタイを整えながら、崩れ落ちたソフト帽の男たちを見下ろすギード。その目にはどんな感情も浮かんでいなかった。
「やりたくてやってるわけじゃないわ。あんたがいるのに勝手に動かれちゃ困るのよ」
「つまり、僕を特別扱いしてくれるわけですね」
「ええ、特別に私がこの手で殺してあげる」
「ふふっ。その時をずっと待ってるんですよ。さあ早く。まずは邪魔者を先にどうぞ、僕はそばで見ていますから」
気を失って倒れた男たちをイネーズが道の端に寄せる。二人並んで歩くだけでいっぱいになる細道ではそれですら障害物になるのだが、動いたり喋ったりしないだけマシだ。
ギードは近くの古い建物の屋根の上へふわりと移動した。
「死にたいんだったら抵抗しないでさっさと死ねばいいのに」
「いいえ、僕は貴女と殺し合いたいんだ。わかるでしょう? 貴女は僕を殺すか、僕と共に永遠を彷徨うかの二択しかない」
イネーズはそれには答えず、身を翻して邪魔者の方へ顔を向けた。
ソフト帽の男たちの周りには、まるで結界のように銀の糸が張り巡らされている。イネーズに加護を与えている神の力が宿った特別製の糸であり、「見ている」と言ったギードの言葉は信じていないという意味でもある。
「ギードが食事させてくれるって言ってたけど、この女のことか?」
「待って。その子もしかしてルゴス騎士団じゃないの? し、しかも剣聖じゃない! ちょっと冗談じゃないわよ!」
「手出し無用だったギードのお気に入りじゃねぇか。やっと飽きたのか? それとも仲間にしようってか?」
ようやく到着した三つの影は、イネーズと対峙すると即座に目を光らせて戦闘態勢に入った。
ギードに隷属する吸血鬼の中では最も古い存在である彼らは、元々は兄弟とその幼馴染という間柄だった。
兄のヘグ、弟のネス、そして幼馴染のロレッタ。人間だった頃から仲の良い三人組だ。狩りでは言葉などなくとも連携がとれる。
じりじりとイネーズを囲むようなポジションを探る三人。対するイネーズは愛剣フランベルジュを両手で構え、息を深く吸って集中力を高めていた。
どこかで皿が割れるような音がした。
きっと売春宿の一室でトラブルが発生したのだろう。
その耳障りな音を合図に、ネスがイネーズに向けて飛び掛かる。これは囮だ。イネーズに剣を振るわせ、いなすのが目的。
次にヘグが掴みかかる。吸血鬼にとって死者の血は毒だ。だから獲物はいつだって生きたまま捕獲、または無力化しなければならない。
ロレッタは影へ潜った。
長い年月を生きる吸血鬼は稀に特別な能力を持つことがある。ギードがコウモリに変化するように、ロレッタは影となって自在に動くことができた。
右手側で剣を封じ、左手側で上半身を拘束、影から足を拘束するというのが彼らの最も得意とする連携技だ。
「……イネーズが勝ちますね」
ぽそりと呟いたギードの口元にはうっすら笑みが浮かぶ。
その視界に、離れた家の窓からこちらの様子を窺おうとする男の姿が入った。
吸血鬼やルゴス騎士団のメンバーでない限り、暗闇の中で行われていることなど見えやしないだろう。とくに離れた場所からでは。
けれども不安げな男の様子に、ギードは古い記憶を思い出した。
途中で数えるのをやめてしまったほど古い昔の話。
嵐の夜だった。収穫目前の大麦を心配していたことから、ギードはそれを初夏の頃だと記憶している。
雨と風が酷くて、古い家屋や家畜小屋が軋む音が悲鳴のように聞こえた。
一度悲鳴に聞こえてしまえば、もうその不安を払拭することは不可能だ。ギードは将来を約束した恋人のイネーズが心配になって、夜も遅いというのに嵐の中を走った。
彼女の自宅へ飛び込むと、中は荒れに荒れている。嵐が家の中にまで入り込んだようであった。
そして転がるいくつかの遺体。ギードは姿の見えない婚約者を探してまた外へと飛び出した。
彼女の両親も幼い弟も死んでいた。一秒でも早く彼女を見つけなければならない、そう思って真っ暗闇の中を勘だけで走る。
何度も転びながら駆けるギードの衣類はすっかり泥まみれになっていた。
「イネーズ!」
もう何度目になるか彼女の名を呼んだとき、轟く雷鳴の合間でついに返事があった。
「ギード! たすけてギード!」
集落の北に位置する森に彼女はいた。ずぶ濡れの彼女の夜着は透けていて、美しい肌がほとんど隠れていない。
イネーズの前にいたのは世にも美しい男だ。真っ黒な髪に真っ赤な瞳。まるで生まれてから一度も日に当たったことなど無さそうな、白く透明な肌。
視線を寄こした男の唇から覗く白い牙を見たとき、ギードはそれが人ではないと気づいた。
「どけ悪魔め! イネーズから離れろ!」
勢いのまま、男に体当たりをする。転がして殴りつける必要があったから。
ギードの体躯は集落の中では大きいほうに分類される。目の前の男と比べてもギードのほうが幾分か逞しい。
だというのに、男はまるで大木であるかのようにそこに立っていた。全身全霊でぶつかったはずが、幼児を相手にするかのような微笑みさえ浮かべていた。
「君はいくつか間違いを犯している。ひとつは、勇敢と無謀が別物であると気づけなかったこと。もうひとつは、恋とか愛とかいう感情に振り回されていること。
そして最後に、自分と恋人だけは無事に朝を迎えられると心のどこかで思い込んでいることだ。まさか、神が守ってくれるとでも?」
男の声はとても小さいのに、風や雨の音に掻き消されることなくギードとイネーズの耳に届いた。
ギードの肩を掴む男の手は、まるで力を入れていないように見えるのにぴくりとも動かすことができない。
イネーズが何かを察して「やめて」と懇願するが、その言葉は男に伝わる前に消えてしまう。
「しかし私は君たちに慈悲を与えてやろう。神ではなく、私がね」
その後のことは、ギードもあまり覚えていない。が、落ち着いて考えればなにをされたか検討がつく。男に血を飲まされたのだ。
次の夜に両親の血を吸いつくして殺したのをイネーズに見咎められ、ギードは集落を出た。
吸血鬼の血を摂取することでヒトは彼らの仲間、つまり悪魔の手先になる。敬虔なクリスチャンだったギードはその日、神に捨てられたことを知った。