過去
安堵と疲れから再び眠りについたシオンはうなされていた。
あの日から数ヶ月、何回も見ている悪夢。
数ヶ月前、彼のすべてが終わった日。
シオンはコンビニでバイトをしていた。
挨拶の声に少しやる気がないことを除けば、ごく普通の店員だった。
いつも来る競馬新聞とガムだけ買ってくジジイ、今日は遅いなとか。
少し腹が痛いな、とか。
今日は嫌いな先輩と一緒のシフトか、とか。
そんなことをぼんやりと考えながらレジを打っているうちに通勤ラッシュの時間になりレジの前に客の列ができる。
今日はガムがよく売れるな、とレジを打ちながらシオンは思った。
ラッシュが少し収まった頃、ガムと競馬新聞だけ買っていく老人がいつもより数時間遅れて店に訪れた。
老人は競馬新聞を手に取り、ガムの棚の前に行き…その肩が震え始める。
いつものガムは売り切れていた。
老人は振り返りシオンを睨みつけると、ずかずかとレジの前に立つ。
「おい、ガム。」
「も、申し訳ございません、ガムは、売切れてしまっていて……」
老人の剣幕に、シオンの声が震える。
「無いのか。」
老人の声が怒りを帯びる。
行きつけの店に普段から買っているものが無い。
それだけでも、堪忍袋の尾が擦り切れて無くなった老人が激怒するのに十分な理由だった。
「お前!客をを!舐めてんのかぁ!」
怒りを爆発させた老人は、カウンター越しにシオンの胸ぐらを掴んだ。
「す、あ、申し訳ございませ……」
絞り出した声の小ささも、老人の怒りに拍車をかける。
「舐めてんだよぁ!舐めてんだよなぁ!お前!客に!そんな態度さぁ!」
他の客は遠巻きに見ているだけ。
スマートフォンを掲げている者もいたが、そんなことに気づく余裕は両者とも持っていなかった。
ストレスでシオンの視界がぐるぐる回る。腹が痛む。キリキリと、グルグルと……
「はぁ……はあ……夢……だったら良かったのに」
目覚めたシオンの額は、脂汗で濡れそぼっていた。
あのあとシオンは腹の痛みに耐えきれず、さらに悪いことに動画でそれを撮影した客の一人がその動画をSNSに投稿したらしい。
またたく間にその動画は拡散され、今では彼のネットでつけられた渾名「クソもらシオン」はスマホを片手に歩く人ならほぼ全員が知っているだろう。
それから当然バイトも首になり、趣味の一つもなかったためにしていた貯金を切り崩して彼は夢も希望もなくほそぼそと毎日を過ごしていた。
そう、彼にはもう何も無かった。昨日までは。
布団から起き上がったシオンは隠し場所から装置を出し、眺める。
昨日までの冴えない日々とは違う。
──俺にはこれが、ヒーローになる力がある。
腕に装置を当てると、しゅるりと装置が固定される。
「ボタンを押して、レバーを」
『エンター!マスクドオン!ジュピター!』
大音量の軽快な音楽とともにシオンはヒーローの姿に変身すると、隣の部屋の住人が壁を叩いた。
「ッセーゾォラァ!」
壁の薄い賃貸の悪いところだ。
「すみませーん」
シオンが謝ると、向こうの部屋からは舌打ちが聞こえた。
この薄さで、叩いても壊れない壁の材質はなんなんだ?
いつものことなのであまり気にせず、シオンはスマートフォンを取り出し自撮りを試みる。
ここ数ヶ月めったに触れてなかったので充電が心許ないが、これくらいならなんとかもつだろう。
人生で初くらいの自撮りのあと画面に写し出されるのは、緑のヒーロー。マスクの目の部分のバイザーは後ろで繋がり、輪のようになっている。
胸の装甲には輪と雷のようなマーク。わりとシンプルなデザインだ。
「ふーん、いいじゃん」
気をよくしたシオンが[俺、ヒーローだけどなんか質問ある?]というスレッドを匿名掲示板「4自衛」に立るべく文字を打ち込んでいると、メールが届く。
また通販かと思ったが、どうやら違うようだ。
差出人欄には[さてらいと]と覚えのない名前。
『どうも、さてらいとといいます。新しいジュピターさん、よろしゅうに。メッセージアプリの一つも無いのは驚きだったよ。』
新しいジュピターさん。シオンのことだろう、またメールが届く。
[いろいろとわからないこともあるだろうから、なんでもきいてね。とりあえずジュピターチェンジャーの説明書を同封したよ。]
添付ファイルを開くと、変身に使う装置のイラストと説明。音量操作のダイヤルも裏の方にあるようだ。
音量を最小にし音の確認をする。このくらいの音なら壁も叩かれないだろう。
またメールが届く。[音の大きさは、ジュピタースーツの出力と比例するよ。大きければ大きいほど強くなれるよ。]
──欠陥品め。
シオンは音量を最大に戻した。
怪人物名鑑#1 ジジイ
ガムと競馬新聞だけ買っていくジジイ
アルコール依存症にもかかわらず競馬で買ったときしかお酒を買えない懐事情なので常にイライラしているぞ。