前に進むということ④
走り続けて、どれぐらい経っただろうか。街灯が着き始めた頃、ようやくわたしは見覚えのある道に辿り着いた。出発点の公園から、少しだけ離れた通りだ。
ここからなら、あの家に――弓削絆を、戻してあげられる。
心にあるのは、ただひたすらに安堵だけだった。
根元から曲がったカーブミラーに体重を預け、寄りかかる。早まっている動悸を抑え、息を整える為だ。
あくまで、普通に。
ただ散歩をして、ボケッとしていたらこんな時間になってしまいました。
それだけの事だ、と言い切って、話を終わらせなければ。
きっと道に迷った、なんて言えば外出時に付き添いが必要だと判断されてしまう。
もう余計な心配は、かけたくない。
「あの、大丈夫ですか?」
明るく透き通る様な声が、わたしの背中越しに聞こえた。ポンポンと肩を叩かれた辺り、わたしに声を掛けたのは間違いないだろう。
「……は、はい。大丈夫、です」
整って来た息を一度、大きく吸って、吐いて、声をかけてくれた人に振り返る。
「……あっ」
ぱっちりとした目に、夕焼けを絡め取る様な輝きを放つ黒髪。わたしよりも背が高いその女性は、目を見開いてわたしを、見下ろしていた。
「……?」
知り合い、だろうか? 初めて見る顔――この世に居る人のほとんどが初めて見る顔にが該当するだろうが――の女性は何も喋らず、肩から下げたエナメルバッグからタオルを取り出し、わたしの額を拭った。
「……もしかして、道に迷った?」
「っ…………いや、そんな事は……無いですとも……」
一発で言い当てられて、途方に暮れる程の不安がわたしを襲う。そのせいで語尾がなんか変な感じになってしまった。
この調子で、家族にバレやしないだろうか――いや、十中八九でバレるだろう。
「わっ、また汗が噴き出して来た」
目の前の女性が再びわたしの汗を拭う。額だけでなく、首筋、服の中まで。
「ひっ、ひえっ⁉ な、なんでそんな所まで拭くんですか⁉」
背中や乳房まで執拗に拭かれた辺りで、ようやくわたしは異物感に身体を捩らせた。
「あ、ごめん。ついいつもの癖で」
いつもの癖で、服の内部を弄る。
わたしには全く想像が付かなかったが、それが異常なのか正常なのか、判別が付けられないのは困りモノだ。
とは言え、母親がしてこない様な事を、弓削絆は普通の知り合いにはさせないだろう。目の前の女性と距離を取り、対峙した。
「ぷっ……あははっ‼ 何それ、拳法⁉ そんな敵意剥き出しにされたら、ちょっと複雑な気分だなー」
軽快に笑い出した女性は、何故かわたしの汗を拭ったタオルで鼻を覆い始めた。
「……なに、してるんですか……?」
「ん? それはもう……堪能?」
くぐもった声が、わたしの耳元に届く。
たんのう?
まさか、堪能と言ったのか?
「んー。良い香り」
……汗の、臭いを?
「~~っ⁉」
「あっ、ちょっと‼」
自分でも信じられない程の素早さで女性に飛び掛かり、タオルを奪い取った。
例え弓削絆がその行為を日常的に許していたとしても――わたしは看過する事が出来ない変態行為だ。入院中の入浴時、自分の体臭は気に掛けた方が良いと学んでいる。
しかしそれ以上に、この身を焦がす様な恥ずかしさと、収まりかけていたハズの動悸が物語っている。きっと弓削絆だってこうするに違いない‼
「はーっ、はーっ……」
奪ったタオルの湿気に少し嫌気を覚えながら、後ろ手に隠す。少なくとも、この不埒な輩に渡すよりはマシだろう。
「あははっ。なんだ、記憶が無くなってもやっぱりお姉ちゃんだね。轢かれたって聞いて駆け付けた時はどうなる事かと思ったけど、今は元気そうで安心したよ」
からからと笑いだした女性。彼女が今しがた放った言葉に、とんでもない単語が聞こえた気がする。
「……おねえちゃん? わたしが?」
お姉ちゃんと言う単語の意味は勿論わかる。それは、誰かに比べて年長者の女性血縁者、或いは関係者を指す言葉だ。
ここに該当する人物が二人しか居ない以上、可能性を示す人――自分を指差して、聞いてみた。
「うん。初めまして、かな? 弓削琴葉です。あなたの妹、だよ♪」
にっこりと笑んだその顔は、確かにお母さんに良く似たモノだった。