前に進むということ③
ケーキ――あれがモンブランらしい。とても美味しかった――を食べた後、わたしは家の外に出て来ていた。部屋に戻っても特にやる事はないからだ。
ぷらぷらとほっつき歩く。そんな言葉が相応しい程、わたしは目的も無く、ただ家の近所を歩きまわっていた。
幸いにも、散歩中に知り合いに会う事は無かった。
洗濯物を干している女性に挨拶されたりしたぐらいだろうか。
わたしの事故は、閑静なこの近所では滅多に起こらない様な大事件だったらしい。話を聞いただけだと言うその女性が、大丈夫か、犯人がまだ見つかっていなくて怖いね、何か困った事があったら言ってね、と声を掛けてくれたのだ。
強いて言っても、挙げられる探検中の出来事はその程度だった。
現役の女子高生が、平日である金曜日の昼間に出会う主要人物は、皆学校に通っている頃だろう。ある意味で、必然な結果だったと言える。
「学校、か」
家からすぐ近くにあった、小さな公園のブランコに腰掛ける。ぎい、と金属が軋む音がわたしの呟きを飲み込んだ。
今のわたしは、身体のどこかをケガしているワケではない。学校に行かない理由は、無いと言えるだろう。
教科書や制服も明日には用意が出来るらしい。
色々と失ってはいるが、世間的に見ればわたしは弓削絆なのだ。籍を置いている高校がある以上、通学し、授業を受けなければならない。高校が故、義務教育ではないのだろうが。
学校に通っていれば、新しい刺激も得られる。何かの弾みで記憶だけでも戻るかもしれない。
「……っ」
ふと、お母さんが見せる一瞬の苦しそうな顔を思い出す。
わかっている。
わたしを傷付けまいと、お母さんが持つ弓削絆の思い出を心に押し込めさせている事。
あの人の優しさは、まるで心に触れる様に温かく。
そして――それ以上に残酷だ。
わたしが長い時間あの家に居れば居る程、負担は増える。
わたしにも、勿論あの人達にも。
だとすれば、やる事は一つだ。
わたしはブランコから、ゆっくりと立ち上がる。
そのまま、予行演習も兼ねてもう少し遠くに行ってみる。
例え勢い任せでも、何もやらないよりマシだろうから。
それからしばらくして、日が傾き出した頃。
「……あれ?」
少しだけ遠くに行く予定だったが、変な道に迷い込んでしまった。元来た道を辿ったつもりだったのだが、通った覚えのない道に出てしまう。
今居る場所は、人通りが少なく、交通量も多くない。暮らすにはもってこいの閑静な住宅街だ。弓削家がある場所に雰囲気は似ているが、この道を一度も通った記憶は無い。
「……そうだ」
携帯。連絡を簡易的に取れる、携帯電話があるハズ。
縋る思いでポケットを弄るが、わたしの着ている洋服には何も備えられていなかった。
頼みの綱が切られた思いだった。
そもそも、弓削絆の所持品が何一つ残されていない状況だ。携帯電話など、あるハズが無い事は考えなくてもわかるだろう。
軽い自己嫌悪に陥りながらも、わたしは立ち止まっているワケにはいかない。
『今日、琴葉が寮からこっちに帰って来るって』
お母さんが言っていた事が耳の奥で再生される。
今日は、弓削家にとって大切な日だ。
……部外者である『わたし』が、弓削絆の日常を台無しにしてはいけない。
そんな使命感の元、わたしは小走りで動き周る。
しかし、時の流れは残酷だ。駆けるわたしを尻目に、日はどんどんと傾いて行く。
「……はあっ……はあっ……‼」
買ったばかりのスニーカーがアスファルトを蹴る音と、わたしの息を切らす声だけが世界にある様だった。
この世界には今、わたし一人しか居ない。
いや、わたし一人だけが浮いている。そんな言い様も無い孤独感を噛みしめながら、ただ走り続けた。




