前に進むということ②
ぺたぺたと音を立てて木製の階段を下り、廊下を通って台所の戸を開ける。
中から何やら甘く芳しい香りが漂って来た。鼻を鳴らしながら台所に入り、コンロの前に立っている女性の背中に声を掛けた。
「おはよう……ございます」
「あ、はは……おはよう、絆」
少し戸惑った笑声を発しながら、台所に立つ女性――お母さんはわたしに振り返った。
「今日のお昼、焼きそばにしたんだ。もうすぐ……うん、もう出来たよ。ちょっと待っててね、盛り付けちゃうから」
「あ、はい……」
フライパンと菜箸がぶつかる音と共に、皿に茶色っぽい何かが盛られて行く。
二つの皿が食卓に並べられ、立っていたわたしは着席を促された。
台所に置かれた食卓の一席。四人掛けのそれは、両親と娘二人が毎食を過ごしている場所だ。
負い目を感じながら、おずおずと座る。
ここが弓削絆の席らしい。初めて座った時から回数を重ねただけあって、多少は慣れて来た。
「絆、ご飯の時は何も言わずに、そこに座ってくれてていいんだからね?」
「……えっと、はい」
こくりと頷き、目の前に置かれているモノを凝視する。台所に入った時から鼻を擽っていた匂いの元は、やはりこれだ。
「ん? 焼きそばに何か変なモンでも入ってる?」
「あ、そうじゃなくって……焼きそば……この匂いが、焼きそばの香りなんだ」
「ああ、そう言えば焼きそばもまだ作ってなかったね。ほら、食事は見るだけじゃなくて、味わってこそ本番だから」
「……うん。いただきます」
用意された箸を手に取り、虚空を挟む動作を繰り返す。
使い方は、幾千度の経験が身体に染み付いて、わかるのに。
実際にこうして、食事をした覚えがほとんど無いなんて。
これまでに何度、そう思っただろうか。
茶色い麺や肉をつまみ、口に入れる。しょっぱさの中に甘みが含まれた、少し複雑な味わいが口内に広がった。
「……美味しい」
感想が、独りでに口から零れた。今までお母さんの料理を何度か味わっているが、どれも美味だ。あまり他の食事を経験していない為、比較は出来ないが。
それでもいくつかの味を経験して、わたしの中で積み重なっている。レストランとか、コンビニで買ったお弁当とか。比べようも無く、お母さんの料理がダントツで一番だ。
「そ? 良かった。私も頂きまーす♪」
パチン、と両手が合わさって音を立てた、その次の瞬間。お母さんはずぞぞ、と音を立てて焼きそばを啜っていた。
お母さんはお父さんが居ないお昼、すぐに食べて片付けるのを定番にしていた。わたしが遅れて食べ終わると、食器洗いを待たせてしまう。
迷惑をかけまいと、わたしは食事に集中し、早く食べる事に専念した。
「今日、琴葉が寮からこっちに帰って来るって」
手早く昼食を終えたわたし達。お母さんは食器を洗っていて、わたしは食卓に着いたまま食休みを取っていた時だった。
ことは。弓削琴葉。両親から、絆の――わたしの妹だと聞かされている人の名前。
わたしとは別の、県外の高校に通っている高校二年生で、現在は学生寮暮らし。
陸上部に所属しており、この前春の大会が終わってようやく一息がついたと連絡があったらしい。
「そう、なんだ」
「だから、今晩は美味しいモノ一杯作るね」
「……うん。楽しみ」
まだ、合った事が無い人が来る。その不安は大きかったけれど、夜に美味しいモノが確約されていると言う心の支えが確かにあった。
「……ふふ」
洗い物を終え、手を拭きながら再度席に着いたお母さんが、わたしを見て笑っている。
楽しそうな、それでいて――ちょっとだけ寂しそうな顔で。
「絆。お母さん、やっぱり敬語じゃない方が嬉しいな」
「っ‼ えっと……」
しまった。気が緩んでいた。
どうにも食事が絡むと気が緩みがちだ。このだらしない食欲を恨めしく思いながら、目を伏せる。
淡い期待をさせたくなかったのに。
「……その……」
「うん」
お母さんは、返答を待っているのだ。
でもそれは、わたしが答えていいものじゃない。
手を膝の上で強く握り、言葉を絞り出した。
「……もう少しだけ、待って下さい」
記憶を――弓削絆を取り戻すまで。
あなたを呼称だけでなく、お母さんと呼べる、その時まで。
「……わかった」
お母さんはただ頷いてくれた。
この食卓には、テレビ等の音を発するモノがほとんど無い。お父さん曰く、家族の団らんに水を差させたくないのだとか。
きっと傍から見ても、仲睦まじく、良い家族なのだろう。
ただ、今だけはこの沈黙を破る何かが欲しかった。
家族とは、血縁者等の親しい間柄の、二人以上の人間を示す単位のハズ。
だから、今は他の音があってもきっと許される。
わたしは――。
きゅう。
沈黙を破る音が鳴った――ただ、わたしの腹部から。
「……あら? お昼、足りなかった? 結構作ったと思うんだけど……」
「…………………………ごめんなさい」
たまらず、顔を両手で覆い隠す。
身体付きはそこそこ細身にも関わらず、食欲はかなり旺盛らしい。
それが元々弓削絆の特性としてなのか、わたしだけでは判断出来なかったけれど。
「最近のよく食べる絆……料理の作り甲斐があって、私は好きだよ。待ってて、ケーキ出してあげるから」
さらりとわたしの白髪を撫でて、お母さんが立ち上がる。
どうやらこの大量に贄を要求する胃袋は、弓削絆特有のモノではないらしい。
それでも、容認してくれる。
良い人なのだ、この人は。良い人達の集まりなのだ、この一家は。
この人が、弓削絆の母親じゃなければよかったのに。
この人が、本当にわたしの母親だったらよかったのに。
今、娘として接している人間が、そんな失礼な事を考えていると言っても、まだ。
――あなたは、わたしを好きと言ってくれますか?
……なんて、問う勇気すらも、わたしには無くて。
申し訳ない気持ちで心は一杯だったのに。
今すぐここから走り去ってしまいたいぐらいなのに。
身体はケーキと言う単語に期待して、動こうとしない。
わたしは、つくづく業の深い存在なのだと思い知った。