繋ぎ、繋がれて⑤
「……他にも、僕が言いたい事がある、と思ってらっしゃるんですね」
ベッドに腰掛けた絆さんの視線が僕に突き刺さる。この人は、本当に頭が良いと言うか、どちらかと言えば勘が鋭いのかもしれない。
そして、大きな勇気を心に抱いている。ただ彼女が恐怖を失い、無謀な事を繰り返しているだけでは無い。無知を承知で、全てを受け入れようとする、確かな強さを感じる。
「そう思わなきゃ、わざわざ殺されかけた相手の拠点になんか、来たりしないよ」
「……至極、筋が通った冒険ですね。虎穴に入らずんば虎児を得ず、と言った所ですか」
最早、彼女を騙す事は不可能だ。記憶を――過去の弓削絆が失われたばかりの時は、あんなにも頼り無く見えていたのに。
夕焼けが照らす道で、辺りを見渡しながら必死に何かを探す彼女を、僕は見ていただけだった。最初は行動の意図が不明だったのだが、もしかしたら事故の影響で道がわからないのかもしれない――僕は、朧気だが気付いていたと言うにも関わらず、数年のブランクで錆び付いた心が、動かなかった。
助け船を出そうと思った。何度も駆け寄り、道を案内しようと思った。
だが、推測が当たっている確証も無く、そもそも僕にはこの人に近付く資格が無かった。僕達は顔見知りでもなく、話した事もほとんど無い。
健常な彼女を見て、どうすればいいか、わからなかったと言うのが本音だった。
あの日、僕がまごまごしている内に、美しい黒髪の女性――絆さんの妹君に、見付かってしまったのだ。凄まじい剣幕で追い払われ、警戒された。近付く事は叶わなかったが、遠くから記憶が無いと言う言葉を耳にし、ようやく推測が確信に変わったのだ。
その後、僕は妹君が難敵であると知っていた為、生半可な関係では話す事が難しいと判断したのを覚えている。とは言え、恋人関係と言うのは流石に無理があったのだろう。
だからこそ、今彼女にこうして、全てを見透かされていると言うのだから。
「ほら、念願のターゲットが無防備で居る。あなたには、成し遂げたかった事があるんじゃないかな?」
手を広げ、僕を迎え入れると言う意思を身体で表現する絆さん。普通は、諦めと言った表情が似合う状況だと言うのに、彼女は強かに口元を歪めているのだ。
頭のネジが何本か飛んでいる――狂気と呼べる域に達している。
「……僕が本気にしたら、どうするつもりなんですか?」
「さあ。でもわたしは、あなたを信じるよ。信じたいと思ったから、ここまで辿り着けた」
僕は立ち上がり、あくまで強気な態度を崩さない彼女に近寄った。
――ヤるなら、今しかない。
僕は彼女をベッドに横たわらせる為に手を――。
「……参りました。降参です」
――頭上に掲げ、白旗を振った。
やはり、敵わない。
話が全て本当だとすれば、生後一ヶ月にも満たない少女にすらも、僕は負けている事になる。
それでも、今は不思議と悪くない気分だった。
『おおー、こんなにキレイに咲いてるアサガオ、初めて見たな』
あれは忘れもしない、中学二年の夏休み。暑い暑い、毎日の繰り返しでしかなかったハズの日の事だった。
『君はいつも花の世話をしてるね。成る程、きっと君は優しい心を持っているんだな』
しっとりと髪を濡らした少女が、塩素の臭いを振り撒いていた。僕が育てていた花を褒め、太陽以上に明るく笑っている。
『あたしが育てた奴は、しわくちゃになってたからな。クラスの皆が押し花にしてたらしいけど、あたしはダメだったんだよ。嫌な思い出だな』
ボーイッシュと言うか、控えめに表現しても少し粗雑な性格の印象を受けた。
人と話す事に慣れていなかった僕は、口数少なく受け答えをした後、一番キレイに咲いていた一輪を摘んだ。アサガオに、特に思い入れがあるワケでも無かったからだ。
『……何? くれるの? ほー、こりゃまた素敵な……うん、ありがと‼ 大切にするよ』
きっと彼女にとって僕は、本心で接した数多の他人の内の、一人でしかなかったのだとわかっていた。
だが彼女は僕にとって、一番心が惹かれる存在になっていた。
そしてアサガオも、大切な思い出を彩る、僕にとって特別な花になったのだ。
それからの事を、最初から悪い事だと思っていなかった。彼女の事が知りたい。その欲望に抑えが効かず、やがて彼女の全てが欲しくなった。
身の丈に合っていなかったが、成績優秀の彼女と同じ高校を受験し、死に物狂いで合格をもぎ取った。少しでも彼女の近くに居る為に。
たくさんラブレターを送った。自分の名前を書く勇気すら持てなくても、少しでも僕の存在を彼女に示す為に。
彼女が汚れるぐらいなら、僕が清らかなままで手にしたいと思った。
だから、いつも通り匿名で愛を綴った手紙――『ラブレター』を贈った。
それが意味する事を、僕自身が理解しないまま。
『……えっ?』
ぐしゃり。
耳に焼き付いたあの音は、僕の古びた色眼鏡が壊れる音だったのかもしれない。
目に焼き付いたあの光景は、僕の狂った色彩に赤色を取り戻させたが故の現実だったのかもしれない。
彼女が死ねば、清廉潔白な彼女が永遠に僕のモノになると思っていた。
そんな幻想が打ち崩され、彼女と共に地面に叩き付けられている。
人が死んでも、誰かのモノになる事は無い。
残滓を掬っても手元からすり抜けて、失われるだけだと言う事を、知ってしまった。
血の海に沈む彼女に触れると、生温かった。
ずっと欲したハズのモノが、間違いなく僕のすぐ近くにあったと言うにも関わらず。
大切な何かがずっと遠くに行ってしまった、確かな喪失感を覚えた。
これが本当に、僕が彼女にしたかった事なのか。
僕が欲しかったのは、彼女の身体でも、彼女の死でもない。
ただ、僕に向かって笑ってくれれば、それで良かったのだ。
そんな簡単な事に気付く為に、一人の命が失われなければいけない。そんな自分の駄目さを見せつける様な悪夢を見て、ようやく自分を省みる事が出来た。
悪い夢を見た後、目覚めた僕が駆け寄った彼女は、目立つ傷も無く、確かに呼吸をしていた。
最早彼女を手に入れる等、どうでもよくなっていた。彼女に、このまま生きていて欲しいと切に思えたのだ。
やっと思い出せた。
世代を超えて育てていたハズのアサガオと一緒に無くしてしまった、純粋な想いを。
素敵だと言ってくれた花を守り続けていれば、彼女は気付いてくれるかもしれない。
そんな淡い期待を込めて、僕は毎日世話をしていたハズだった。
あの夏の日の僕には確かにあった、恋心。
どこに置いて来てしまったのだろう、心のどこかでずっと探していた。
それを探す為に、記憶を失った彼女を利用した事も相違ない。
だがそのおかげで、僕の犯した罪の重さを知る事が出来た。
――そう、探し当てたとしても、もう遅いのだ。
彼女は、僕の手に届かない所に行ってしまった。
僕は心を閉ざし、目の前に咲く偽りの花の美しさに身を焦がす。
だがその花は輝きを発し、僕を包み込もうとする闇を切り裂いて行く――。
「これ、過去のわたしから送られた手紙なんだけどね。妹にあげた本の中から出て来たんだ。ちゃんと宛名と差出人がしっかりと書かれてる、正真正銘の手紙だよ」
脳内での自責から僕の意識を引きずり出す様に、絆さんは沈黙を破った。その手にはシミだらけの便箋と新品同然の封筒を持って、力無く座り込んでいた僕に見せている。
「えっと、確か昨日の話では、絆さんの所有物はみんな消えてしまっていたハズでは……?」
混乱する頭の記憶を辿り、なんとか言葉の体を成した。絆さんは真面目な顔のまま首肯して、話を続ける。
「うん。でも、手紙は所有権の譲渡に当たるから、わたし――未来の自分に宛てた手紙を残す事は可能だった、と考えられるね」
「な、成る程……」
流石と言うべきか、僕の理解が及ばない域で過去と現在を結び付けているらしい。
「多分、これが一番確実に残したかったモノ、なんだろうね。わたしが見つけたルールのほとんどに該当するから」
「ルール……教室で、あの二人に話していた奴ですね?」
絆さんは何も言わずに頷く。確か、所有権が絆さんにあると失われる為、条件を付けてルールを回避し、メッセージを残したと言っていた辺りの事だろう。
ルールは簡単に四つ程説明していたと思うが……あの中で該当しそうなモノは……。
「勘ですけど、自分への手紙は本来失われるハズの、所有物に分類されますよね。ただそこに『未来の』と明記する事で、所有権を放棄した……?」
「きっと、ね。そして更に、他人に渡す事で自分が持っていない事を強調している。半ば無理矢理押し付けたみたいだけど、しっかり受け取らせている辺り、奪取等の『承認無しで行われた譲渡』が対象外だと睨んでの確信犯だね」
わかっててやったのかはわからないけど、と自嘲気味に話す絆さんは、どこか楽しそうに見えた。腰掛けたベッドのスプリングを鳴らし、足を組む。
まるでこの部屋の主だと言い出さんばかりの彼女の今日の下着は、薄い水色だった。
「でもって、宛名と差出人を明記している。恐らく彼女は、手紙を送るには差出人の名が必要だと考えた……これが無かったら、わたしの部屋のモノと一緒に全部無くなっていたかもしれない」
紡がれる彼女の言葉に、一つの違和感を覚える。昨日会って絆さんから聞いた話では、確か部屋には手紙等は一通も残されていなかったと聞いている。
「……あれ? その……僕のラブレターとかって、扱いはどうなるんですかね? 既に捨てていた、とかなら無くなっていても変じゃないですけど……」
絆さんは不敵に微笑んで、僕の顔を指差す。
「いや、わたしは先生から、かつて彼女は匿名から届いていたラブレターを保管していたとも聞いてる。承認なしで行われた譲渡にそれが含まれるとすれば、そのラブレター達の所有権は高垣君にあるから、残っていなければならない。でも、それらは確かにわたしの部屋から失われていた。この事が意味するのは……多分、手紙には何か特別なルールがあった、と考えるべきだよね」
「もしかして、差出人が不明な手紙は、手紙として扱わない、とか?」
「わたしもそれが濃厚だと思う。高垣君は下駄箱に手紙を入れた時点で所有権の放棄になり、彼女は誰のモノでも無くなった紙切れを受諾した。手紙のやり取りと言うより、捨てた拾った、の関係に近いのかもね」
僕が知る絆さんは、物持ちが良いと言うか、モノを捨てられないタイプの人だったハズだ。そんな彼女の部屋がほとんど何も無くなると言う事は、失われないモノがごく少数に当たる、と考えられる。
そちらに無理矢理ねじ込む為に、過去の絆さんは画策したのだ。
「つまり、手紙やメッセージは差出人、宛名が明記された状態で、なおかつ未来のわたしを示唆する言葉が含まれた場合のみ残されるんだと思う。色紙からわたしの名前が無くなっているのは、未来を暗示するキーワードが無かったからだね、きっと」
貴方の手紙はリアルタイムな内容が書いてあったみたいだから、モロ対象になったんだよ。彼女はおかしそうにそう言った。
「なんとなくわかって来ましたけど……でも何故、僕にその話を?」
そう、最初からわからないのは、彼女の意図だ。確かに手紙は消えた、恐らく犯行予告状も含めて。
だがそれを、今の絆さんがわざわざ僕に言って聞かせる必要が無い様に思える。
絆さんはそっぽを向いて、歯痒そうに呟いた。
「……だから、その……ラブレター、ちゃんと受け取ってたよ、彼女。悪い気はしないって、この手紙にも書いてあったし……ああもう、察してよ‼」
「……っ‼」
歯切れ悪く紡ぐ言葉は、間違いなく思いやりが込められている。
もしかして、絆さんは僕に気を遣って――手紙を宛てた彼女の代わりに、返事をしてくれている、と言う事なのだろうか。
貴方を殺そうとした輩なのに、危険を冒してまで?
全く理解し難いが……そう言えば、弓削絆と言う人物は、昔からこうだった。そう思う自分が、確かに居た。
絆さんは面白くなさそうに口を尖らせて身体を揺らしている。僕はその姿を見て、頬が自然と緩むのを感じた。
「ありがとうございます、絆さん」
「はあ……そんなんじゃ、新しく彼女が出来ても苦労するよ?」
「……そっか、もうバレてるんですもんね。全部、僕の嘘だったって……」
そしてとうとう、彼女と一緒に居る資格も失った。
――いや、元々手にしてなかっただろう。ただ、真実が白日の下に晒されただけだ。
「と言うか、最初からバレバレだったけどね。あれだけキョドってたり、連絡先知らなかったりしたら、すぐにわかるって」
「……そうですよね」
それも、薄々だが気付いていた。絆さんは何もかもを見抜いて居ながら、敢えて僕と一緒に居る、と。
だから、罪滅ぼしとは行かないが、せめて良い恋人であろうと頑張っていたのだ。彼女が望む事に応えるのと同じ様に。
実際僕も、一緒に過ごせる時間を待望していた為、願ったり叶ったりの状況と言えた。ただ、現実は妄想の様に上手くは行かなかったのだ。態度と意識のズレが違和感を醸し出したのだろう。
それに加えて、彼女の隣に居ると自然と湧いた邪な感情が邪魔をする。それを押し隠そうとして、嬉しい反面、かなり気疲れした数日間だった。どちらにせよ、僕の方が長続きしなかった関係だろう。
「でも、悪くなかったよ。頑張ってくれているのは、わかってたから」
「……絆さん」
少し寂しそうに言う彼女の表情はどこか儚げで、白い髪を引き立てていた。まるで風に揺れる一輪の花。そう思える程、自然な表情だった。
その美しさに当てられて、なのだろうか。
「僕、自首します。彼女を怯えさせた罪と、向き合います」
自然と紡がれた言葉。
絆さんは目を真ん丸にして、けれどもどこか悟っていた様に僕を見つめている。
しばしの沈黙の後、したり顔で足を組み替えた絆さんが口を開く。一瞬だけ映る淡い水色がまた、僕の網膜に焼き付いた。
「……罪って、なんの?」
「……え? だから、僕が送った脅迫状の事ですよ。法律とかわからないですけど、多分脅迫とか。未遂でも、それっぽい罪はあると思いますし」
そして有罪は免れないだろう。だがそれでも、彼女が呼び覚ましてくれたこの心に、もう嘘を吐きたくは無かった。
僕の言葉を聞いてなお、絆さんは薄笑いを止めない。
「そっか。それで、その脅迫状ってのはどこにあるの? ありそうな場所は、所有権が放棄されたハズのまで自分のモノとして受け取った、ラブレターと一緒の所かな?」
「……っ‼」
この人は一体、どこまで未来を見越して行動を起こしているのだろう。これまで続けていた会話は全て、僕に納得が行く様に――信用を与える為に、詳細を説明していたのだとしたら。
「……事故と、同じ。この事実を知っているのは、今となってはわたしと高垣君だけ。彼女、律儀に脅迫状の内容に従って、誰にも言ってなかったみたいだし」
「……だからと言って、貴方が生きている限りその罪が無くなるワケでは……‼」
「どうだろうね? 高垣君は、どう思う?」
組んでいた足を解き、ぶらぶらと前後させる絆さんは、どうにも幼く見えてしまう。
それは、当然だろう。今ここに居る少女は、僕が生きた様に十数年を過ごして来たワケではないのだから。
生きているのは、僕が脅迫状を送った少女とは別人なのだから。
「そんな事を、僕に聞かれても……‼」
憤りをぶつける対象を見付けられず、僕は唇を噛んだ。
罪を償う――例えば、警察に自供したとしても、この少女は被害に遭った事を絶対に口にしないだろう。そして決定的な証拠となるハズの脅迫状も、出て来るハズが無い。
「そもそもっ……不可能じゃないですか‼」
世界――真実が、僕を無実の青年に仕立て上げようとしているのを強く感じた。
こんなにも、心が贖いをする様に責めたてていると言うのに。
「……まだあるよ? あなたを合法的に裁く方法」
「……っ⁉ ど、どんな方法ですか⁉」
その一言は、まるで闇に差し込んだ光だった。闇の切れ間に手を伸ばす様に、僕は絆さんに詰め寄った。
面喰った様に、彼女は視線を僕から外す。その先にあるのは、山ほどに積まれたノート――僕が付けていた、絆さんのストーキング記録。
「そうだ、僕がこのノートを持って自供すれば……‼ ストーカーとして起訴とかされるかも……⁉」
「あ、そう言えば、欲しいモノくれるって言ってたよね。じゃああれ、貰うね?」
「……え?」
彼女の唐突な発言の意味が全く理解出来なかった僕は、ただ見ているだけだった。
僕の脇をするりと通り抜け、積まれたノートの表紙に次々と何かを書いて行く。
最早確認するまでも無い――『弓削絆』の文字が刻まれた。
「うん。きっとこれがあれば記憶を取り戻すとまでは行かないけど、大分わかる事も増えるね。ありがと、高垣君」
薄目を開けて、無邪気に微笑む絆さん。
きっと彼女は何もかもを、理解してやっている。
証拠は消え失せ、彼女の日々の行動を記したモノ――ちょっとだけ風変わりで、綿密な内容の『弓削絆の日記』になってしまった。
僕に罪を認めさせ、そして贖罪の方法すらも奪い去る。
――完膚なきまでの、敗北だった。
「……どうしたの? 真剣な顔して」
ベッドの脇で硬直したままの僕の横を再び通り抜け、ベッドに腰掛ける。
そんな無防備な彼女を見て、僕は一つの事を思い付く。
もう一度、『弓削絆』に対して罪深い行為をすれば――最早存在しない罪を、一緒に贖えるかもしれない。
「……きゃっ」
そう思った時には、身体が勝手に動いていた。掴んだ腕に抵抗する意思すら見せず、絆さんはベッドに横たわる。呼吸に合わせて慎ましい胸が上下し、僕の劣情を掻き立てる。
僕は彼女に覆いかぶさる。腕を腋下に差し込み、逃げられない様に少しだけ身体に触れさせる。
「……っ‼」
唾を嚥下した音が首を伝わり、頭蓋の中で反響する。真下に見据えた彼女の手が、僕の首に絡み付いた。少し高めの体温が、抵抗無く僕の身体に溶け込んで行く。
依然、彼女は強気に微笑んだままだ。だと言うのに頬をうっすらと赤く染め、熱に浮かされた様に目をトロンとさせている。
「……絆、さん……」
「……もう一つだけ、聞いて?」
「……なんですか?」
首に絡んだ腕に力が入り、頭ごと彼女のあどけなさの残る顔に吸い寄せられる。
目線を外す事すら忘れ、頭の中が真っ白になって行く。その代わり、僕の脳内を絆さんの存在が、埋め尽くそうとしている様に感じた。
触れるまで、あと数瞬もあれば十分だろう――頭がそう理解した時には僕の顔の横を、彼女の唇が通り過ぎていた。
「『ラブレター』出してくれて、ありがとう。おかげで弓削絆は、兄を不幸な殺人者にする事無く、こうしてここに居られる。だから貴方に、お礼をしてあげたい。望むなら、なんでも」
煩悩に埋まっていた頭が急速に冷え、風が通り抜けて行く。覆いかぶさっていた体勢をすぐに解き、ベッド脇に立ち上がった。
「あれ、いいの? その……臭いとか、嗅ぐんじゃないの?」
「……よく言いますよ、ホントに……と言うか、僕別に匂いフェチとかじゃないですし」
「……そっか」
彼女に背を向けながら受け答えしていた為、表情を確認する事は出来ない。
それでもきっと彼女は、表情を崩していないだろう――ずっと微笑を浮かべたまま、僕の背中を見ているのだとわかってしまう。
彼女に敵わないと悟った時、僕は敗北感と言った負の感情を一切抱かなかった。
今ならその理由がわかる。
勝負以前に、同じ土俵に立ってすらいないのだ。
絆さんはきっと、最初から僕に戦いを挑みに来たのではなく、ただ真実を告げに来ただけだ。
僕に、罪を贖う方法が得られない事を教える為に。
「……絆さん」
「なに?」
布が擦れる音に混じって、素っ頓狂な声が返って来る。
「これから、どうすれば良いと思いますか? もう居ない彼女の恨みを、どう解いてあげればいいと思いますか?」
憑き物が完全に落ちてしまった、無力な僕の言葉に、まったりとした声がこう答える。
「さあ……わたしにはわからないかな。取りあえずわたしと一緒に、アサガオでも育ててみる? 昔のわたしみたいに、押し花でも作ってみようか。ほら、こんな風に」
観念して、絆さんに振り返る。目の前に、しわしわに色褪せた――けれど、かつては一番キレイに咲き誇っていたアサガオの花が見せつけられる。
現物は随分と変わってしまったけれど、僕の頭はしっかりと思い出せる。
これはかつて、彼女と共有した思い出の欠片。
「……これ……まさか……?」
「大切に取って置いたみたいだよ。手紙に一緒に入れてわたしに送った辺り、相当だろうね。名前も知らない男の子から貰った、アサガオの花言葉に、運命を感じたんだって。知らなかったとは言え、そんな相手から貰ったラブレターを……恨んだりしないと思うよ」
彼女は、にっこりと大きな笑顔を咲かせた。その輝きは大輪にすら負けない輝きを放ち、僕を照らしてくれている。
「……ううっ‼ 絆さん……‼ ゆげ、きずなさん……‼」
膝から力が抜け、僕の身体が床に沈み込む。
あれだけ見続けていたのに、肝心な事に気付けなかった。
どれだけ姿形が変わっても。どれだけ距離が離れても。どれだけ違う道を進んでも。
あの時の思い出は、絶対に色褪せない。
僕が忘れない限り、ずっと――永遠に。
アサガオの花言葉は――。
「『永遠の絆』、か。例え歪んでいたとしても、きっと愛情に変わりは無かった。それが、彼女に訪れるハズだった残酷な運命を変えた――わたしは、そう思いたい。だから、償う必要なんて無いんだよ。寧ろわたしがこう言わなきゃいけないんだ。ありがとう、って」
「好きだったんです……あの時からずっと……‼ でも僕には、貴方に釣り合うモノが何一つ無かった……見ている事で精一杯でした……‼」
「……」
感情を吐露する僕の情けない背中に、絆さんは何も言わない。
「それでも! せめて貴方を好きだと言う気持ちだけは、一番でありたかった……‼」
自分すらも見失っていた言葉が感情に乗せて飛び出て来る。まるで鎖で縛りつけられていた囚人が、歓喜して脱獄して行く様に。
「ごめんなさい……‼ 僕は……貴方を好きだっただけのハズなのに……‼ 取り返しの付かない事をする所でした‼ 本当に……すみませんでした……‼」
溢れる雫が眼鏡にあたって、光を散らす。悲しみだけではない何かの結晶が、滲む僕の視界を照らした。
「お詫びにならないかもしれませんが……貴方の事、一生忘れません……‼ 僕が全てを欲しがる程に恋をした、貴方の事を……‼」
他の人は思わないかもしれないが、僕は思うんだ。
人が死を迎えた時に、最も大切な事は形式に則る事じゃない。
死者を心の底から悼み、望まれた最期の別れをやり遂げる事こそ、弔いではないか、と。
だから罪を雪ぐ水を――涙を流したい。
葬式の会場でも無ければ、日程も合っていないけれど、許して欲しい。
僕が貴方を想って流す涙は、きっとこれで最後だから。
死せずして生きる彼女の前で、歪な別れの時間が続く。
高校三年生の連休中に訪れた、僕にとっては奇妙で――一生忘れられない一日の出来事だった。




