決別と継続⑧
「……ここ、ですか?」
「うん」
わたしが高垣君を引き連れて訪れたのは、荒本先生と共に整備した花壇だった。よく濯いだ空き缶に水を入れ、余白の多いプレート付近の、種を植えた部分に水を撒く。
「……まだ種を植えたばかりみたいですね。何を育ててるんですか、これ」
「アサガオだよ。二年前、園芸部の人が辞める時に置いて行った種なんだって」
「……っ⁉ そ、そうなんですか。アサガオ、好きなんですか……?」
「え、うーん……どうだろう。わたしは、まだアサガオが咲いてる所見た事無いから。何故かわからないけど、知識だけあってさ。先生に相談したら、植えてみるかってなっただけだから、特に深い意味は……」
本来は五月ごろに種を撒くハズのアサガオを、少し早めに植えた。わたしは、何故かアサガオの種を撒く適性時期を知っていた。
アサガオを育てた記憶も、花を見た覚えも無いのに。
わたしは――アサガオと言う花がどんなものかを、他の花とは比べ物にならない程に知っている。
「……あ、すみません……不躾な事を聞きました」
「ううん、全然。寧ろ楽しみだから。どんな花が咲くんだろう、って。知らないって皮肉な事にさ、きっと重たい罪なんだけど、楽しみの裏返しでもあるんだ」
冗談めかすわたしの言葉に、少し言葉を失った様子の高垣君。しばしの沈黙が流れた後、唐突に口を開いた様だ。
「……絆さん。実は僕、好きな人が居たんです」
「へえ……どんな人だったの?」
わたしは花壇を見ながら尋ねる。彼は、唸り声混じりで、こう答えた。
「……なかなか掴み所が無くて、口で説明するのは難しいですけど……初めて、僕をしっかりと見てくれていた人なんです。いつも花の世話してるね、って言われて、嬉しくて」
「……そっか」
「はい。僕は……あの時を……あの輝きを、失いたくなかった。時の流れと共に風化して、無くなって行く思い出にしたくなかったんです。だから、美しいままのあの人を常に見続けていたんです……かつて偶然贈った花が意味する、花言葉と同じ様に……」
「……想われて、幸せだったんじゃないかな。その人も」
「……そう言ってくれるのは、きっと貴方だけです……ありがとうございます」
花言葉、か。
ロクに記憶も無い癖に、何故かアサガオについてだけ覚えている都合の良さ。これまでの経験から思い当たる節がある。
植える時は気にも留めなかったが、彼の花が意味する言葉とは確か――。
「絆さん、そろそろ暗くなりますから、帰りませんか?」
掛けられた言葉で我に返った。確かに辺りは薄暗くなり始めている。ただでさえ朝早く出たのだ、あまり心配を掛けない為に早く帰るべきだろう。
「ん、うん。それじゃ、ちょっと先に校門まで行っててくれない? すぐ行くから」
「え? わかりました、了解です」
高垣君の背を見送り、辺りに誰も居ないのを確認する。別にやましい事をするワケでは無いのだが、邪魔だけはされたくなかったのだ。
明後日から連休が始まる。そこまで焦る必要は無い、少しずつでも前に進めば大丈夫だ。
だが、水やり以外にやり残した事がある。バッグから油性ペンを取り出し、余白だらけのプレートを引き抜いた。
無意識的に避けていたのかもしれない。
何も知らない状態でも、わたしがわたしだ、と頑なに考えを変えなかったのはきっと、この先が辛く過酷な道になるとわかっていたから。
しかし既に、わたしは答えに気付いている。霞んでいた道はハッキリと見えている。
もう後には戻れない――戻るつもりもない。
「もしあなたの遺志とは違っていたら、ごめんね。でも、急にワケわかんないバトン渡されて、完璧にこなせる人なんて……」
居ないよ、と続けようとして気付く。
学年トップの成績を誇り、周囲に愛される人柄を持つと言う、何でも出来そうな人に、心当たりがあったのだ。
「……そっか。だからあなたは他でもない、未来の自分に……わたしにバトンを託したのか。なら、好き勝手やらせてもらう、それでいいって事だよね?」
今ここに居ない彼女を想い、油性ペンの蓋を取る。
渡されたバトンの重みで何度も地に膝を付いたが、その度に立ち上がり、わたしは今、ここに居る。
「まあ……少しは大目に見てよ。わたしはあなたと違って、そこまで強くないんだから」
余白だらけのプレートの、黒い面積を少しだけ増やした。
太さが違う為、少しバランスが悪くなってしまった気もするが、まあいいだろう。
『弓削絆の花』と書かれたプレートを再び突き刺し、わたしは花壇に背を向ける。
「キレイに咲いたら……お供えするから。それで、勘弁ね」
弓削絆を取り戻す。その願いは、叶える事が出来なかった。
だが、彼女を失い、知らずとも心に傷を負った人達が居る。その傷を癒す事ならば、きっと出来る。
いや、やらなくてはいけないのだ。
他でもない、弓削絆が――あなたから託され、引き継いだわたしが。
ただ入れ替わっただけじゃない。ただ弓削絆が記憶を失ったワケじゃない。
その二つがわかっただけなのに、どうしてこんなに見える世界が変わるのだろう。
きっとその答えは、とても単純だ。
例え全てを失っても。例え全てが信じられなくても。
生きたいと願う限り、時は流れ、世界は続く。
その奔流の中で諦めない限り、誰だって、自分らしく生き続ける事が出来る。
今この瞬間を生きる、わたしの様に。




