決別と継続①
「……はあ」
高垣君と別れ、わたしは帰宅した。帰りが遅かった事で少し注意を受けたが、それ以外はいつもと変わらぬ時間を過ごせたと思う。
夕餉の時には学校で起こった事を少しだけ話せた。絆の両親は嬉しそうに話を聞いてくれていたので、一応安心はさせてあげられただろうか。
今わたしは入浴を済ませ、自分の部屋で布団に横になっている。一日で色々な事があり過ぎた……身体と精神共に疲弊し切っている。
「……でも、前には進めてる」
かつて小さな世界だけで過ごしていた頃に比べて、辛い事は多い。それでも前に進むと決め、それなりの成果は出せていると思う。
「あ、そう言えば――手紙」
わたしは後回しにしていた手紙の存在を思い出し、吊ってある制服のポケットから折り畳まれた紙を取り出した。
『真実を求める、名も知らぬ貴方へ。貴方が目指す道の先に在るのは、遺された絶望だけだ。
それでも前に進むと言うのなら、貴方が背を追う咎人の罪を贖うがいい。
その場に踏み止まり、安寧を求めるならば、咎人は赦され、安らかな眠りに誘われるだろう』
キレイな字で綴られた手紙と、寄せ書きの文字を見比べる。やはり仁科さんの文字で間違いないだろう。
だとすれば、彼女が今日、わたしにこの手紙を託した意味を理解しなければ、会う事は出来ないと言う意思の表れなのだろうか……。
真実は恐らく失われた記憶の事だろう。ただ、名も知らぬ貴方と言うのは、仲の良かった友人に宛てる手紙に書く呼称では無いハズだ。この事が意味するのは……恐らく。
「やっぱり知ってるんだ……それも、わたしが弓削絆じゃないって所まで……‼」
そしてわたしがこのまま行動を起こしても、遺された絶望しかないと記されている。だとしても、わたしは自分のやるべき事に気が付いてしまった。最早後には退けないのだ。
その為にすべきは……背を追う咎人の罪を贖う事?
「咎人って言うのは……わたしが背を追う対象、つまり求める真実と同等って考えていいのかな……それなら記憶、もとい弓削絆って事になるけど……」
彼女が犯した罪……問われても、当然ピンと来ない。わたしが産まれたのと同時に、彼女は失われているのだから当然だろう。
それに加えて、彼女の痕跡も同時に失われているのだ――探れと言うにも、情報が少な過ぎる。
高垣君に情報を仰ぐ時、なのだろうか。
「……んーっ‼」
スマートフォンを手にし、呻きながら逡巡する。
散々迷った挙句、わたしは唯一の手がかりを放り投げ、難題と再び対峙した。
「……仁科さんは、わたしが過去の弓削絆と同じでない事を知っている……にも関わらず『わたし』宛てに手紙を書いた……っ‼ なら、わたしでもやれる……やらなきゃ……‼」
咎人。罪を犯した人。
当然だが、簡単に言えば悪い事をした人となるハズだ。
悪い事をすれば、それは当然贖う義務が発生する。赦しを乞う為に、犯した罪と向き合う必要がある。
切っ掛けを求めて部屋を見渡す。と言っても見当たるモノなど、すっからかんの本棚と収納ボックスしかないのだが……。
そう言えばあの収納ボックスは琴葉のだと言っていた。持ち出したのはわたしでないとは言え、罪悪感を覚えたモノだ。
「……罪悪感?」
立ち上がり、収納ボックスに近寄る。中を見やると、少量の衣類のみが入っていた。琴葉はあの後、へそくりだけを回収したのだろう。
そして、こう言っていたハズだ。
『まあ、今のお姉ちゃんに言っても仕方ないけど……どうすればいいの、このぶつけ様の無いモヤモヤは……まあ仕方ない、とりあえず貸しておいてあげるよ……でもいつか返してね?』
そう。借りたモノは返さないといけない。
借りたモノ、そして遺された絶望。
「……まさか」
先程見比べる為に使った寄せ書きを裏返す。そこに記されているのは、琴葉が文句を言っていた文言。
『仁科優希から弓削絆へ。この色紙を貸与致します。然るべき時に返却願います』
「……これを、仁科さんに返せば……いいのかな?」
二人分のメッセージが書き込まれた、余白だらけの色紙。今思えば、全てがここから始まりを告げ、そしてわたしを導こうとしている様だった。
「これで……また一歩」
恐らく、生命の誕生から見れば一瞬にも満たない出来事だろう。
ただそこに足跡を刻む行為の実感を、わたしはひたすらに噛みしめていた。
「ただ、ここで止まらないと……彼女は赦されない……?」
手紙の結びに書かれている言葉がどうにも引っかかる。
その一言だけで、わたしの行いが間違っているかの様な感覚に陥るのだ。
「……違う、実際に間違っているんだ」
わたしは常に、真実に囲われ、守られていたハズだ。それに背いて、わたしがわたしであろうと足掻いた結果が、今に至るだけで。
『絆、ここが僕達の――絆の住む家だよ』
『絆。お母さん、やっぱり敬語じゃない方が嬉しいな』
『記憶が無いってのは元々聞いてたし、わかってるつもり。でも、お姉ちゃんはお姉ちゃんのハズでしょ? なんで、パパとママに敬語使うの?』
『成る程、それでいつもタメ語で話してた俺に対して敬語なのか……嫌われたのかと思ったよ』
『自分を【なんか】なんて卑下しないで……‼ 弓削さんは、私の自慢の生徒なんだから』
『……成る程、な。だがよ、お前を見て皆が弓削絆って呼ぶんなら、お前はその名前なんじゃねえのか?』
『またまたー♪ いっつも思ってたけど、弓削さんったらホントに口が上手で羨ましいわー。今度一緒に遊びに行こうね』
『そうですね……絆さんはまさに学年のマドンナって感じでしたね。才色兼備で、友達もたくさん居て、人から嫌われている様子は、無かった様に思えます』
家族や今目の前に居る人達に愛されて来た彼女。
そしてそれは、今も変わらないのだ。
これは、弓削絆と言う少女が生きる物語。
そして今迎えているのは、記憶を失った主人公が手探りで朧気な自分を、必死に探している場面なのだろう。
家族がわたしに優しく接してくれた、本当の理由。
琴葉がわたしを見てくれた、本当の理由。
わたしだとか、失った思い出だとか、取り戻すだとか。
そんな小難しい理由――わたしがわたしだと言う、言い訳の為じゃない。
わたしが代わりに愛情を受け取っていたワケでも無い。
あの人達は、記憶を失った自分の娘や姉を弓削絆と呼び、愛しただけなのだから。
だがきっと、それは配役からの義務感などではない。
生きとし生けるものが持つ、二重螺旋が司る生命の記憶。
親子、家族、血の繋がり――呼称は何でも良いだろう。それは大きな時の流れの中に産まれた、小さいが、確かな愛の受け渡しを続けていたのだ。
そしてそれ以外に関わった人達は、絶えず流れる時の中で、彼女と接した記憶や繋がりを保っているだけ。
だから、最初からずっと、こう呼ばれていただろう?
――絆、と。
生を得た時より定められた名は、弓削絆だと。
それが真実だ。そしてみんなが望むのは――わたしが記憶を失った弓削絆として、与えられた役目をこなす事。
両親と打ち解ける事、妹に助けて貰う事、友人に受け入れられる事。
本当は全部、流されるだけでよかったのだ。彼女の人生の、代役でしかないのだから。
「……でもっ‼ わたしは……っ‼」
皆が呼ぶ『それ』は、皆に愛されて、皆が取り戻したい、思い出を共有している誰かの事だと思っていた。
きっとわたしは、背後から『名前』を呼ばれても、振り返る事が出来ない。受け止める事も出来ない。
買われたばかりの犬と同じで、その音の連なりが意味する事を知らないのだから。
気の遠くなる様な、長い時間をかけて初めて、呼ぶ対象と、呼ばれる名前は繋がるのだろう。
その長い時間を過ごした記憶が無いが故、わたしは名前を受け入れる事が出来ないだけなのだ。
だとすれば――当然弓削絆も、産まれた瞬間から弓削絆だったワケではないハズだ。
始まりは、『自分を自覚する何か』でしか無かったのではないだろうか。
『今ここに居る何か』と同じ様に――わたしはわたしだと、泣き叫んだのではないか。
だから無意識の内に悟っていたのかもしれない。
――わたしは、何も知らない子供なのだ、と。
だが、子供は何も知らないままでいいのだろうか。小さな世界に閉じこもったままでいいのだろうか。
名を受け入れる切っ掛けを手にしないままでいいのだろうか。
与えられるモノを享受するだけで、大人になれるのか。
「……今更、言い訳なんて……ダサい真似出来るかっ‼」
子供だから、なんて関係無い。わたしだから、前に進まずにはいられなかっただけだ。
制止を振り切ってまで、小さな世界から飛び出す事を決めたのだから。
今のわたしを弓削絆だと定める世界に、刃向ったのだから――‼
何が正しくて、何が間違っているのかもわからないわたしのままで。
だから涙を流した。だから痛みを知った。だから罪の重さを知った。
それでも今、『わたし』がここに居る事実は変わらない。
やっぱり、わたしはわたしでしかないのだ。
わたしは、かつて弓削絆と呼ばれていた少女とは違う。新しく産まれた何かに変わりは無い。
彼女のそれまでの記憶が無い限り、同一人物として扱うのは無理な話なのだ。
今、そう思ったのにはきっと理由がある。
高垣君が呟いた言葉……それも真実なのだとすれば、わたしは直面するだろう。
心の支えにして来たハズの何かが――折れる瞬間に。
だから仁科さんは、敢えて手紙をわたしに宛てて出したのだ。
苦しみたくなければ、世界に刃向うな、と。
わたしが追い求めているのは真実ではなく、ただの『絶えた望み』でしかない事を。
だが、彼女は一つ間違っている。
もしあの赤い光景が、『何も見付からない事故現場』と言う、世界が定める真実に埋もれた――彼女が世界に突き立てた牙の傷跡だとすれば。
咎人の安らかな眠りは、このままでは訪れない。
取り戻せるのか、引導を渡すのかはわからないが。
「……ったく、面倒な事押しつけやがって」
荒本先生に向かって放った荒げた口調は、きっと素の『わたし』のものだろう。
我ながら品性の欠いた――子供らしい言葉遣いだと思う。
もしかしたら、彼女が心の中に抱えていた暴力的な本性なのかもしれない。きっと、全ての人が心の内側で飼いならす、本能と呼ばれるモノだ。
都合良く、今の白い髪は優等生には程遠い。
まるでそれは、常識に翻す反旗の色の様だった。
「って、それじゃ降参してるみたいだよ……」
だが、本能を剥き出しで居ると言うのは、少しはしたない気がする。やりたい様にやれる程自己本位的であれば、最初から苦労はしていないのだ。対外的な言葉遣いぐらいは気を付けようと思う。
自分が取るべき方針が大体決まった所で、改めて自分の存在を考える。
――もし彼女を咎人と言うのなら、わたしは一体、何になるのだろう?
「……吊るし上げられて、戦犯にでもなればいいのかな……? 別に何であっても、構いはしないけど」
くつくつと、込み上げる笑いを噛み殺す。下手に騒いで、『両親』を困らせてはいけないから。
言ったハズだ。心に決めたハズだ。
彼女を愛する人達に、ずっと笑顔で居て欲しいのだ、と。
その願いは、どんな事があろうとも変わらない。
だからこそかつてわたしは、前に進むと決めたのだから。
わたしは彼女が遺した罪を手に、絶望へ続く扉を押し開いた。




