プロローグ③
「先生、絆は……絆は、どうなってしまったんですか⁉」
僕、弓削和利は夢心地で立っていた。用意された、見るからに固そうな椅子に座ると、途端に現実味が増してしまいそうで。
妻である弓削梓は、しっかりとした形の良いお尻を椅子に預け、娘の主治医に詰め寄っていた。
「落ち着いて下さい、弓削さん。まず、身体の容体から説明して行きますから」
主治医は数枚の紙を取り出し、見覚えのあるレントゲン写真をシャウカステン(ライトを備えたディスプレイみたいなモノだ)に貼って行った。
「まず、轢き逃げ事故に遭ったにしては奇跡的な外傷ですね。打撲や擦り傷はいくつかありましたが、目立った外傷はそれぐらいです。頭部への強い衝撃による脳震盪と思われる症状で意識を失っていましたが、脳への損傷は認められず、後遺症も現れていません」
ここまでは、担ぎ込まれた日に僕達も聞いている。妻もその先が早く知りたい様で、そわそわと身体を揺らしていた。
――そう。僕達の娘である絆は、轢き逃げ事故に遭った。家の近所にある通りで発生し、未だ解決していない事件となっている。
警察によれば、白い軽自動車がブレーキを踏まずに路側帯を歩いていた絆を撥ね、そのまま走り去ってしまったと言う。たまたま傍に居た目撃者の通報によって病院に担ぎ込まれた。
事故が本当にあったのか疑わしい程に傷は少なく、命に別状は無いと診断されたのだが、意識が三日間も戻らなかった。そして今日、とうとう目覚めたのだが、また新たな問題が顔を出してしまった。
「先程問診を……それと、いくつか簡単な質問をしてみました。詳しくは精査が必要ですが、どうやらエピソード記憶に、衝撃の影響が出ている可能性が高いでしょう」
「エピソード記憶……ですか?」
主治医が目を伏せ、重苦しく首肯した。
「はい。心理学の分野にも入ってしまう事と、個人によって症状が様々な為、簡単に概要だけ説明します。記憶と言うのは何種類にも分類出来るのですが、その中の細かい種類の一つに、エピソード記憶と言うのがあります。これは、その人が経験した事……どこで何をした、とかの一般的に思い出に当たる記憶に当たります」
「そ、それじゃあ絆は……思い出を失ってしまった、と言う事ですか?」
妻の震えた口調の質問に対し、主治医は少し迷って――首肯した。
「日用品の名前を間違えたり、示したモノが何かを認識出来かったり、と言う事はありませんでした。意味記憶……一般的に、知識に当たる部分に問題がなかったのは、不幸中の幸いでしょうか……」
「幸いってそんな……‼ ついこの間まで、家族四人で元気に過ごして居たんです。それが急に、絆が事故に遭って、なかなか目が覚めなくて……それで目が覚めたら、今度は思い出が無くなって。僕の娘が、一体何をしたって言うんです……‼」
僕はまだ、夢の中に居る様だった。それ故か、僕の発した言葉はどこか上滑って行く様な浮遊感を纏っている。
あまりにも、多くの事が起こり過ぎている。僕は今まで、平凡だが小さな幸せに包まれて暮らしていた。
それが、一つの悪質な交通事故のせいで大きな変貌を遂げたのだ。状況を整理しようにも、頭が理解していても、心が受け入れを拒否している。
僕は、立ち尽くしたままだった。
「……元には、戻らないんですか?」
妻の問いに、主治医はデスクの上で指を汲み、淡々と、それでいて静かに語り出す。
「こう言ったケースは稀に起こるのですが、大半はショックによって一時的に記憶を失っている事が多いんです。時間の経過で元に戻る可能性は、十分に考えられるでしょう」
僕と妻が安堵の息を漏らしそうになる寸前、主治医は間を開けずに続けた。
「ですが、医学的な観点から見て、現状絆さんの脳に異常は見当たりません。ですから、確実に記憶が戻る保証は出来ない事を、先にお詫びさせて頂きます……力が及ばず、申し訳ありません」
渋い顔で頭を下げる主治医を見た時、ようやく察する事が出来た。この人は、僕達の事を本気で気の毒に思ってくれているのだと。
僕達は説明を受けてから、初めて理解しているが、主治医であるこの人は、既に絆の現状を知っていたのだ。
その上で僕達に事実を伝える役目を担い、この結末を予測していたのかもしれない。
いや、予測していた上で、僕達に余計な期待を抱かせず、それでいて現状を正確に伝えてくれている。これを優しさと呼ばずして、何を優しさと呼ぶかと問える程の気遣いだ。
それに比べて、僕はどうだろうか。娘の発言にショックを受け、現実を受け入れられないでいる。用意された椅子に腰掛けず、これが夢なら醒めてくれと言わんばかりに、時間の経過に身を任せている。
――ごめんよ、絆。
絆が思い出を失って、一番辛いのは誰だ? 僕だと言うのか? 確かに辛い。けどきっと一番じゃない。なら妻か? 妻も辛いだろうが、きっと一番じゃない。
――絆だろう。僕の娘だろう。一番辛いと感じるのは、僕の娘のハズだろう⁉
ならば僕がする事はなんだ? 絆の父として出来るのは‼
僕は椅子に腰掛け、隣で震える妻の肩を抱く。先に現実を受け入れ、強い母の姿を見せてくれた、僕の自慢の妻の心を支える。
やはりと言うか、長時間座れば尻が攣りそうになると思う程、椅子は固いモノだった。