痛みを知る少女⑮
「ここ……らしい。事故が遭った日、確かに俺もここを通ったんだ」
湊さんの背中を追い掛けて辿り着いたのは、弓削絆の家から彼女が通う学校までを結ぶ通学路の途中、根本から折れ曲がったカーブミラーがある地点だった。
「ここが……?」
「ああ。轢き逃げに遭った、と言う割には血や車の痕跡等の遺留物が無かったらしい。数日間鑑識の為に立ち入り禁止にされていたけど、事故と関係するモノは何も見付からなかったみたいだ」
背中越しに湊さんの言葉を聞きながら、最も怪しいカーブミラーを観察する。確かに目に付く様なモノは見当たらないが、何故こんなにも、曲がっているのだろうか。
「このカーブミラーって……」
「それが、原因はわからないみたいなんだ。少なくとも、ここで物損事故があった記録は無いらしい。だからこそ、今回の事故で起こったんだろうと言われてたんだけど……」
「……このミラーから、事故を指し示す証拠は見つからなかったんですか?」
「……そうなんだよ」
わたしからしてみれば、今こうして過ごせている為、犯人の真偽や事故の真相などは、正直に言えばどうでも良い。
しかし、弓削絆と言う人間の立場や重要参考人にされた湊さんからすれば、明らかにしなければいけない事案なのだろう。それはつまり、弓削絆が生きている限り、避けては通れない宿命だと言う事を意味する。
今日で何度目の嘆息になるだろうか。つくづく不運に巻き込まれる身体がストレスを吐き出しながら、辺りを見回した。
特に何も見当たらず、諦めて空を見上げようとした時の事だった。
「……えっ」
赤黒く彩られた何かが、わたしの視界を横切った。
道沿いに折れ、鏡が本来向く必要の無い方向を映している。
しかし何よりも、そこに映し出されているモノは、この場には存在し得なかった。
「なに……?」
鏡越しに見える地面には、夥しい量の赤黒い液体――血が広がっている。
血液の海の真ん中に浮いているのは、赤く染められて輝きを失った、黒髪の女の子。
琴葉――?
そう考えた次の瞬間には頭が否定していた。
何より彼女は髪を長く伸ばしているし、事故以降もピンピンしているハズだ。
では、アレは誰だろう。
答えを求めるのは簡単過ぎて、考えるまでも無い。
今この世界から失われている、美しい黒髪が特徴の女の子。
「……ゆげ……きずな……?」
視界が急速に落下し、臀部に強い衝撃が走った。
アスファルトの固くて生ぬるい感触。そしてじんわりと広がる痛みが、わたしが腰を抜かした事を教えてくれた。
「……絆⁉ どうした、何があった⁉」
湊さんがわたしに近付き、声を掛けてくれる。
わたしは震える指先で、鏡を指し示す。
「……? 何か、映ってたのか?」
「……見えないんですか?」
「あ、ああ……申し訳ないけど……何も……」
恐る恐る立ち上がり再び鏡を覗くと、湊さんの言う通りで、そこには何も映っていなかった。
――幻覚、だろうか。
まだ力の入りきらない脚の感覚を確かめる様に、つま先で地面を叩く。
「……白昼夢……って奴なのかな」
ミラーにおぞましい幻が見えた角度を思い出し、虚像が見えた場所に近付く。アスファルトに顔を近づけても、そこには何も無かった。
「……ここが事故現場って、初めて知ったんだよね?」
「……え?」
振り返ると、呆然とした顔で湊さんがわたしを見ていた。その行動が信じられない、そんな風に言いた気な表情だ。
「そこは……絆が倒れてた場所のハズだよ。俺も実際に見たワケじゃ無いけど、警察に話を聞かれた時に、そこら辺って言っていたんだ」
「……偶然、わたしが近付いただけですよ。それにほら、ここには何も無いし……」
今ここには、何も無い。それは確かだが、先程の光景が頭をちらつく。
そして、像を結ぶ光の道筋を辿った先に、わたしが倒れていた。
偶然と呼ぶには、少々出来過ぎている気がする。
鏡の中に見えたのは、ただの幻――?
しかし、分析しようにも情報が圧倒的に足りない。
湊さんは事故に立ち会っていないと言い、警察が何を見付けたと言う事もない。
ひとまず、今ここで出来る事はこのぐらいだろうか。
「湊さん、案内して下さってありがとうございました」
「ああ、全然構わないよ。絆には、知る権利があったからね」
「……さっきも言ってましたね。義務では無く……権利、ですか」
湊さんは神妙な顔で、こくりと深く頷いた。
「俺は、辛い事を無理矢理思い出す必要は……義務は、無いと思っている。だから、絆に聞かれない限り、色々と黙っておこうと思っていた」
俺が容疑者と言う事も含めてね、と彼は自嘲気味に続けた。
しかし、わたしが自発的に問うた時――権利を主張した時、湊さんは包み隠さず話してくれた。自分の罪を隠そうとしたのではなく、わたしを守ろうとしたのは理解出来る。
「……何故、貴方はわたしに優しくするんですか?」
「ん? まあ、言ったじゃないか、友達だって。今の俺と絆の関係は、それが一番やりやすいと思ってるから。ここから先は、事故に一切関係無い事だし……今言って聞かせるべきモノでもない」
逆を言えば、彼はまだ、わたしに伝えていない過去がある。湊さんは切らなくても良い手札を敢えて教える事で、答えを先延ばしにしているようだった。
「……いつか、聞けば教えてくれるんですね?」
「才崎の名に誓って、絆が望むならいずれ全てを明かすと約束するよ。俺、これでも由緒正しき家柄の御曹司なんだ。それこそ、現時点で変な噂が独り歩きしない様に根回し出来るぐらいの、家のね」
少し意地悪く笑む彼の表情から、圧倒的な自信が伝わって来る。本当に事故を起こしていないのか、それとも全てを隠し通せると思っているのかの判別は難しい。
だがわたしには、この人が嘘を吐いている様には思えない――思いたくなかった。そもそも隠匿しようと言うのなら、生き証人であるわたしをまずどうにかするだろうし、情報を提供する必要も無い。
ただそれ以上に、彼の気遣いからは、家族の様な近しい者の愛情を確かに感じる。ここは素直に受けておくべきだろう。つくづく弓削絆の受けている愛情と、周囲に与える影響の大きさを思い知った時間を過ごした。




