痛みを知る少女⑩
五十嵐先生に連れられ、二階にある三年二組の教室の前までやって来た。
廊下を歩いている途中で、クラスの状況について話を聞いている。
大まかに説明すると、三年生が始まったばかりだが、クラス編成は二年生の時と変わっていない様だ。故に、個人差はあれども交友関係は良好だと言う。
だから軽い気持ちで居れば大丈夫、と五十嵐先生には言われたのだが、逆に不安を煽られた気分だった。
しかし、ここで怖気づいてはいられない。揺れそうになる心を引き締め、腕を組む先生を見た。
「お昼休み中だから、流石にクラス全員は居ないと思うけど……心の準備はいい?」
深呼吸をして、しっかりと首肯する。
五十嵐先生はにっこりと笑んだ後、引き戸を勢い良く開いた。ずかずかと教室に入って行く背中を追ってわたしも未知な領域に踏み入る。
「……え、あれ、ホントに弓削さん⁉」
「髪真っ白じゃん‼ イメチェン⁉」
「でもあれ、すっげえ似合ってるよな……」
嬉々とした視線を浴びながら、辺りを見回す。木製の床と棚、灰色の清掃用具入れ等、見た目は派手とは言えない作りだ。
机の半分ほどに生徒が着席していて、思い思いの昼食を広げていた。座る彼らの髪は、黒や茶色等、暗めの色が多い。やはり、この光景に白い髪は、悪い意味で目立ってしまいそうだ。
これが、彼女の通っていた教室。重要な手がかりや、鍵が眠っている場所なのだ。
栗色の髪で胸部に特徴のある少女――仁科さんは、見当たらない。昼食を摂りに、何処かへ行ってしまったのだろうか。
「はい、弓削さんが学校に来れるまで回復したので、連れて来ちゃいました‼ ほら弓削さん、挨拶、挨拶‼」
「ええっ? えっと……お久しぶり、です?」
何と言えばよかったのだろうか。五十嵐先生の突然のフリに、取りあえず思い浮かんだ言葉を咄嗟に口にした。次の瞬間、クラスは静まり返ってしまった。
「……あ、あれ?」
視線を右往左往させ、静寂に包まれた教室で一人混乱するわたし。肩に置かれた手の感触でハッと我に返った。感触のした方向を見ると、先生が優しくわたしを見つめている。
「弓削さん。みんなには朝のホームルームで、記憶が無くなってるって説明してあるんだ。だから、素直な気持ちを言っちゃって大丈夫だからね」
「……っ」
つまり、好奇を宿した視線を送る、この目の前に居る人達を、初対面の人として接してもいい……と言う事だろうか。
確かに学校に来る前は、この状況を望んでいたのは間違いない。
状況を上手く運べば、わたしをわたしとして認識してくれる人を増やす事が出来る。
しかし、安易に行動する危険性を学んだ以上、印象を変える様な自己紹介は避けるべきだ。
ではわたしは――素直な気持ちを問われて、何を返せばいい。
わたしは何の為に、ここに立っているのだろう。
それは間違い無く、弓削絆を取り戻す為だ。しかし、わたしの居場所を作る機会を与えられているのも事実で……。
「弓削さん、ほら早く‼」
五十嵐先生に急かされ、頭の中の混乱が速度を増して、最早ぐちゃぐちゃになっている。
欲望と使命が入り混じった感情のまま、ワケもわからず口を開いてしまった。
「わ、わたし、申し訳ないんですけど、皆さんの事、よくわかんないです‼ こんなわたしでよかったら、また仲良くして下さい‼ 力を貸して下さい‼ 宜しくお願いします‼」
自分がここまで大きな声を出せたのか、と言う驚きと一時のテンションに身を任せた挨拶内容に凄まじい後悔を覚えながら、わたしは立ち竦む。
やがて、再び静まり返った教室に音が産まれた――手を叩く音。つまり、拍手だった。
「なんだ、やっぱ弓削さんだな。言葉遣いは丁寧だけど」
「ね。最初大人しそうに見えたけど、結局エネルギッシュなんだね」
「いや、別にいいでしょ、そんな事……弓削さん! こちらこそ宜しくね!」
耳に届くのは、拍手と歓迎の嵐。
あれでよかったものなのか。正直な感想を言えば、戸惑いの方が強い。
わたしのせいで弓削絆の名前に、傷を付けてはいないだろうか。
つい先程まで、そんな心配ばかりが胸を過っていた。
しかし、この状況には何か、当たり前なのにわたしが気付けなかった重要なモノが含まれている気がした。
――もしかしたら、わたしは思い違いをしているのではないだろうか。
喝采の中でわたしは、今の自分を省みる。
彼女は今、この世界から失われている。その代わりとして、わたしがここに居る。
それはわたしと、ここに本来立たなければいけない人、合わせて二人分の物語だ。
だが、わたしがわたしだと考えてくれているのは、わたしと荒本先生のみ。甘めに分類しても、そこに琴葉が加わるぐらいではないだろうか。
つまりそれは、わたしが産まれてからの短い間で、胸中を明かした相手に限られている事を意味する。
では他の人達から見れば――?
そんな事は決まり切っている。両親と同じく、弓削絆が紡ぐ物語が、途切れずに続いているのだ。起こった変化と言えば、記憶を失う演出が、そこに書き足されただけの事。
この教室に渦巻く喧噪は、待望の何かを祝うものだ。
何か――クラスに欠けていた、一人のクラスメイトの帰還を。
『『お帰り、絆』』
退院した日。絆の両親がわたしに掛けた言葉。
家族に欠けていた、一人の娘の帰還を出迎えるものだ。
ここまで来て、ようやくわかった当たり前の事。
周囲の人達にとって、彼女は既に帰還を果たしているのだ――恐らく、わたしの誕生と共に。
だから皆、記憶を持たないわたしを弓削絆と呼ぶのだろう。
そこに居る者が胸中を明かして否定しない限り、別人であると言う事に気付かないまま。
安堵と落胆、両方の意味を持った溜め息を一つ吐く。上手く行ってよかったと思う反面、やはり自分の欲したモノをみすみす逃す事に、全く抵抗が無かったワケではない。
わたしの居場所を作る、千載一遇のチャンスを棒に振ってしまった。弓削絆の名を脅かさない様に、と心に決めておきながら、迷ったり名残惜しんだりするのは、わたしの弱さの表れだ。
それでも、選んだ答えに微塵も後悔をしていないのは、我ながら不思議だと思う。
何故なら、望みを果たす為には、彼女が失われている事を知って貰う――自分が弓削絆ではない事を露呈する必要があるからだ。
そうすれば、かつてわたしが望んだ通り、ここに立っているのは『誰でもない何か』になり、自分を貫く事は容易かっただろう。
クラスメイトもわたしを初対面の誰かとして受け入れてくれる態勢があった状態だ、変な噂も広まりにくい好条件だったハズ。
しかしそれでは、彼女が『本当の帰還』を果たした時、わたしが過ごした部分に空白が生じてしまう。勿論、彼女とクラスメイトの両者共に、だ。
きっと彼女の家族も、彼女自身もそれを望まない。彼女が失われている間も、弓削絆がそこに存在する時間は、流れ続けさせる事が可能だ。わたしが彼女を否定しない限り。
「来て、良かったかもしれない……」
「そう? そりゃあまあ、ここは弓削さんのクラスだからね♪ どんな状態になったって、弓削さんを受け入れるよ。みんな、帰って来るのを待ってたんだから」
手遅れになる前に。紡ごうとしたわたしの呟きを遮って、五十嵐先生が笑って返した。
きっと真意は伝わっていないだろう。だからこそ、わたしの考えを肯定する大切な言葉が聞こえたのだ。
やはり彼女を守ろうと言うのなら、わたしは弓削絆を取り戻すだけでなく、存在を繋いで行く必要もある。
だが、荒本先生に叱責された時、わたしは一度屈している。
そんな弱いわたし一人の力で、彼女の奪還と存続を、並行して成し遂げられるだろうか。
――わたしはきっと、そこまで強くない。
だから、つい口から出てしまったのだろう。
力を貸して下さい、だなんて。
ワケがわからなくなって飛び出した、かつて誰にも言わなかったハズの――荒本先生には言ったかも知れない――弱音だ。
しかし、何も知らないクラスメイト達がそれを聞いてなお、沸き起こった拍手喝采。
少しだけ、救われた気分だった。
彼女がこれまでに築き上げた、信頼の賜物だろう。つまり、弓削絆の功績だ。
わたし一人では無理だとしても、周囲の人達の協力があれば、なんとかなるかもしれない。
ただ、いくら彼女の為とは言え、それを享受するだけと言うのは、やはり忍びないと思うわたしが、確かに居る。
ならば――ギブアンドテイクはどうだろう。
わたしが、あなたを取り戻す以外で、してあげられる事と引き換えに、弓削絆の培って来たモノを使わせて貰う。
先にテーブルから離れ、意思疎通を図れない彼女が、見返りに何を望むのかはわからない。
しかし、わたしがやらなければいけない事――生きる理由が、また一つ増えた様に感じた。




