痛みを知る少女⑨
応接室に戻ったわたしは、花壇の作業を手伝ったお礼として貰ったペットボトルの紅茶飲料を口にする。
なし崩し的に、なんとか弓削絆の経歴に汚点は付かなかった。しかし、根本的な問題の解決にはなっていない。
今はこうして一人で居られるが、学校に来ているのだからいずれは授業に参加する事になる。
それは必然的に他人との接触の機会が増える事を意味するのだが、このままでは荒本先生の時の二の舞になりかねない。
やはり学校に来たのは早計だったか――浮かんだ後悔を、頭を振って消し飛ばす。
「……しっかりしろ。自分で決めたんだから」
脚を踏み入れた外の世界には、わたしの想像を超えた困難が大量に待ち構えていた。
それも当然だろう。わたしが産まれてから経験した世界が、あまりにも狭過ぎた。
だが、優しくて温かな狭い世界に居ても、何も変わらない。
例え広い世界の凍てつく寒さに包まれ、心が絶望を覚えても。
例え立ち塞がる障害に心を痛め、涙を流しても。
歩む事を止めてはならない。
それが、わたしの選んだ道だから。
世界が今のわたしを弓削絆だと定義するならば、わたしは世界に刃向った。
その罪の報いは、わたしが必ず受ける。
記憶と言う名の花を取り戻した、ここにあるべき花壇の為に。
「……荒本先生のロマンチストがうつったかもしれない」
「やっぱり、荒本先生と話したんだね」
「ひえっ⁉」
背後から唐突に声が聞こえた事に肝を冷やし、飛び上がる。振り向くとそこには、にこやかに笑う五十嵐先生が立っていた。
「……んー」
「な、なんですか?」
じろじろと顔を見られ、わたしは袖で五十嵐先生の視線を遮った。
「……いや、さっきまでとは随分顔つきが違うなって思って」
「へっ?」
思わず間抜けな声が出てしまった。五十嵐先生はそう言うが、わたしは園芸関連の作業しかしていないハズだ。少し日に焼けたのだろうか。
意図が伝わっていないのを察したのだろう。首を身体ごと捻りながら言葉を絞ろうとする先生を見ながら、頬をさすった。
「何と言うか、んー……活力に溢れてるって感じ。ごめん、私ボキャブラリーがしょっぱいから、これが限界だよ」
面目ない、と悪びれずに呟く五十嵐先生を見ながら、自分の状態を省みる。
荒本先生とのやり取りを経て、わたしは変わった気がする。
流石に、何がどう変わったかを詳しく説明する事は叶わないが、やらなければいけない事はわかったつもりだ。
まだ小さな世界しか知らなかった頃には信じられなかった、自分が一番守りたいモノ。起こした行動は、確かに他の欲も併せ持っていた。だがそれは、ただ逃げるだけの口実ではない。
もう見失いはしない、大切な事が心に刻まれているのがわかる。
「荒本先生のお説教は効くよねー……私も昔よく怒られて落ち込んでたけど、弓削さんはその比じゃなかったよね。顔に生気が無かったもの」
荒本先生に叱責された後、わたしはひたすら自分の無責任さを責めた。正直な事を言えば、自暴自棄になりかかっていたと思う。
だがそれはもう過去の事。わたしの中に積み重なった、大切な何かに変わっている。蒸し返されると、居心地が悪くなりそうだと感じた為、話を逸らす事にする。
彼女の口ぶりからして、元々は荒本先生の生徒でもあったようだ。あまり良い思い出ではない様に語る五十嵐先生に、意趣返しの様にわたしは尋ねる。
「……でも、五十嵐先生は……荒本先生のこと、悪い先生じゃないって言ってましたよね?」
五十嵐先生は渋い顔のまま、垂直に立ち直った。
「うん、お花が大好きで、生徒の事は考えてる先生だって、学生の頃から知ってるし。ただ、言い方がキツイのと、融通が利かない所が残念なのよ。ちょっとでも校則破ったらすぐにガミガミ言うし」
五十嵐先生の話す内容はつまり、怒られる様な事をしなければ、非の打ちどころの無い先生だと言う称賛の裏返しだ。彼に対し、余程強い信頼があるのだろう。
「でもそれは、弓削さんもわかっているんでしょう?」
「ええ、まあ……その、そもそも荒本先生に、わたしがハッキリ言わなかったのが悪いんですから」
「……随分、肩を持つのね? さっき、あんなに泣かされたのに」
にやにやといやらしく口元を歪める五十嵐先生。わたしは恥ずかしさを誤魔化しながら話をはぐらかす為、窓を見ながら呟いた。
「泣いたのは、わたしの勝手ですし。と言うか、そもそもなんで五十嵐先生がそんな聞き方をしてくるんですか」
「いやー、私は怒られてから最低二週間は恨んでたからね。それが月に二回起こってたよ……まさに無限ループって感じだったし」
それは荒本先生の対応を抜きにしても、この人が問題児だっただけではないだろうか。喉から出かかった思いを、口の中でなんとか噛み潰した。
「……私は、あの人の優しさに気付いてなかったからね。教師になって、ようやく荒本先生の苦悩がわかった。でも、弓削さんは違うみたいだから、当然なのかな」
五十嵐先生は少し哀愁的な笑みを浮かべ、窓辺に近寄る。窓から葉桜を眺めながら、先生は語り続けた。
「さっき、荒本先生から聞いちゃったのよ」
「……っ」
少しだけ、心が痛んだ。誰かに話した時点で、いずれ訪れるハズの時が、やって来ただけだと言うのに。
「弓削さん、貴方……」
わたしはただ、放たれる言葉を待つ。例え心が痛んでも、わたしの犯した間違いから逃げられない――いや、逃げてはいけない。
わたしが、彼女の名を用いても、名誉を挽回しなければならないのだから。
「荒本先生の花壇弄り、自主的に手伝ったんですって?」
「え、ええ……」
「いやー、私が同じ立場だったら絶対道具放り投げて帰っただろうなーと思ってね。『自業自得だろ‼』って」
「はあ……その、それで?」
「え? それだけだよ?」
変な事言ったかな、と首を傾げる五十嵐先生の様子から、本当にそれ以上の話が無かった事を悟る。大袈裟に話を振るモノだから、余計に身構えてしまった。
安堵の息を吐き、わたしは荒本先生の気遣いに感謝する。
「あ、これは内緒にしてって言われたんだけどね? さっき荒本先生から、『弓削の事、気に掛けてやって下さい』って頼まれちゃったのよ。言われなくてもそのつもりです、って返しといたから、安心してね♪」
内緒の話を本人にしたらダメだろうとか、今の発言のどこに安心すればいいのか等、五十嵐先生に対する不信は高まったものの、荒本先生の温情を知れたのはよかった。担任にさえ言っていないのだ、余計な事の吹聴は控えてくれるだろう。
「って、そろそろお昼休みの時間ね。いきなり明日授業に参加するってのもアレだし、休み間中に一回クラスに行ってみない? 今の弓削さんならイケると思うし」
提案に一瞬、身体と表情が強張る。
最初から学校には、その為に来たハズなのに、いざその瞬間となると尻込みしてしまいそうになる。
――それでも。
「……はい」
前に進まなくては、怖いモノは怖いままで終わってしまう。
そして、前に進めば、考えが改まる事もある。
荒本先生との作業と会話は、その事を知れた大きな好機だった。
琴葉も言っていた。何事も前向きに行こう、と。
何もなかったハズのわたしに、だんだん積み重なって行く何かが存在感を増して行く。
それが何よりも大切なモノだと言う、確かな手ごたえを感じながら。




