痛みを知る少女⑤
喧騒を聞き付け、他の教員が介入に入るまで、どれくらいの時間が経っていたのだろうか。
少なくとも、わたしが自らの存在価値を疑うには、充分な時間だった。
わたしは、何も知らない子供だ。
自分が何かすらもわからない、子供なのだ。
――いや、自分が間抜けで、世間知らずで、自己中心的だと言う事だけは、わかるのかもしれない。
今思う事は、もう楽になりたい、の一つだけ。
誰にも顔向け出来なくなる程、惨めな気持ちだった。
「弓削さん、本当にごめんなさい。復学早々、嫌な思いをさせてしまって……荒本先生も、悪い人じゃないんだけど……ちょっと、タイミングが悪かったみたいで」
職員室に併設された、ちょっとだけ豪奢な応接室。泣きじゃくっていたわたしはそこに通された。涙が枯れ果て、感情の流動が収まってから、ずっと俯いていた。
「髪は染めてなければ大丈夫だからね。あのファイルからも名前、消して貰ったから」
他の人の力を借りなければ、自らの犯した過ちも贖えないとは。
「事故の影響で白くなった、って職員室でも話してたんだけど……優等生は担当外の荒本先生には上手く、伝わってなかったみたいで……」
目を上げるのが――生きているのが、恥ずかしい。
「ごめんなさい。私がもっとしっかりしていれば……」
今こうして、弓削絆として学校に来てしまった自分を、ひたすら責め続けていた。
「えっと……その……弓削さん?」
見知らぬ女性がわたしの横に座って、ずっと言葉を掛けてくれている。
だが今は、弓削さんと呼ばれるのがわたしの罪を責めて来る様に聞こえ、とても辛かった。
「もう……放っておいて、くれませんか……?」
「嫌です」
このやり取りも幾度目なのかわからない。わたしを励まそうと言う、無駄な時間をこれ以上取って欲しくなかった。
「……なんで、そこまで……こんなわたしなんかを……」
温もりを感じた次の瞬間には、わたしは見知らぬ女性に肩を抱き締められていた。
「自分を『なんか』なんて卑下しないで……‼ 弓削さんは、私の自慢の生徒なんだから」
「……だったら、弓削絆に優しくすればいいじゃないですか」
「……? 弓削絆って……貴方の事よね?」
「……そう、ですよね」
周りから見れば、わたしは『事故から回復し、戻って来た弓削絆』でしかないのだ。この人の反応は至極当然で、何も間違っていない。
ただわたしが、逃げただけだ。
身に余る愛情から、そして背負うべき宿命からも。
「……あ、そっか。記憶が無いって事は、他人のセーブデータを途中から始めるようなモノなのか……そしたら私は……また最初から頑張らないと、だね」
「……え?」
女性がわたしから離れ、正面に立つ。童顔がスーツ姿に微妙に似合っていない、ちょっとちぐはぐな外見だ。
「初めまして、今日から貴方の担任になる、五十嵐颯です。教師歴はそこそこやってます。趣味はゲーム全般ね。って事で、宜しくね、弓削さん♪」
にっこりと笑む女性――五十嵐先生。
その真っ直ぐな笑顔が眩し過ぎて、わたしはまた、目を伏せてしまった。
次の一時間は授業があるから、ちょっと待っていて欲しいと言い残し、五十嵐先生は退室した。
まだクラスに行かない方が良いと先生に判断され、今わたしは保留の身だ。
自分で弓削絆を取り戻すと決心した癖に、今の状況に安堵を覚えている自分がどうしようもなく腹立たしかった。
唐突に、扉がノックされた。
返答すべきか迷っていると扉は勝手に開け放たれ、ジャージ姿の中年男性――確か、荒本先生と呼ばれていた――が入室して来た。
反射的に身体が強張り、竦む。ソファの隅で縮こまっていると、荒本先生がすぐ傍まで近付いて来ていた。
「……ちょっと、いいか?」
「……?」
先程とは打って変わって、荒本先生は小さく呟いた。
「さっきは、その……すまなかった。許してくれだなんて言うつもりは無い……ただ、それを伝えたかっただけだ」
照り付ける日差しの中、学校の敷地内を歩きながら聞こえた言葉。昇降口で履き替えた新品同然のローファーが、乾燥した砂を踏みしめる。
確かにきつく言われたが、あれはわたしの中途半端な態度にも問題があった。その咎を噛み締めつつ、絞り出すように答える。
「……いえ」
「……そもそも、ただの校則違反であんなに怒鳴る必要なんてなかったんだ。俺は、抱えていた鬱憤をお前に当たり散らした。その罰は、幾らでも受けるよ」
立ち寄った物置から持ち出した、シャベル等の園芸用品が歩を進める度に音を立てる。その内のいくつかを任され、わたしは荒本先生の後を追っていた。
「弓に削る……それで、ユゲって読むのか。まさか、学年トップの成績を誇る生徒の名前があのファイルに一瞬でも書かれるなんて……二十年振りぐらいか」
荒本先生は懐かしそうに語っていく。
「大学生との間に子供を授かっちまった、優秀な女子生徒が居たらしい。俺はまだあの時ペーペーで生活指導の担当じゃなかったから、詳しくは知らないが、とにかくそれ以来の珍事を引き起こしちまった……」
「……弓削絆が、学年トップ……ですか」
両親と琴葉から勉強がよく出来たとは聞いていたが、そこまでだとは思わなかった。
背後からの為、荒本先生の表情は窺えないが、どうにも自重気味な口調だ。
「恥ずかしい話、お前がトップだと言う事を知ったのもついさっきだがな。俺は生活指導担当でも、メインは校則違反者だからな。ぶっちゃけた話、問題を起こさない様な成績上位者なんて眼中に無かった」
「……そうなんですか……」
「……着いた。悪かったな、荷物持ちなんてさせて」
荒本先生に連れられ、やって来たのは花壇だった。
しかし、土は踏み荒らされ、色とりどりの花は根元から折れて、花弁を散らせてしまっている。いくつかの花に添え木がなされていたが、無残にも枯れていた。
「……これは」
「俺が世話していた花壇だが、休み中に荒らされてたんだ。どうせ、俺が指導した校則違反者が、仕返しのつもりでやったんだろう」
先生は花壇にのそのそと近寄り、静かに手を合わせた。やがて向き直ると、花の残骸を持って来ていたゴミ袋に入れ始める。
その悲しさと憤りを押し込めた表情が全てを物語っている。
当て付けか。そう真っ先にわたしに聞いて来たのは、花壇を荒らされた事が頭を過ったからなのだろうか。
「こんなどうしようもない野郎を手伝ってくれてありがとうな。それと、本当にすまなかった。その荷物を置いて、戻ってくれ」
「……」
言われた通り、バケツを地面に下ろす。
きっと先生は、気が立って必要以上に怒ってしまった謝罪をする為に呼び出しただけだろう。
となれば、わたしはここでお役御免となり、付き合う必要も無い。
ましてや、あれだけわたしを激しく叱責した先生なのだ。
そう考える頭とは裏腹に、わたしは小さなスコップを手に持ち、花壇に近付いていた。
「……手伝わなくていい。お前も、あいつらみたいに俺を恨んでいいんだ。俺は、それだけ酷い事をしてしまったんだから。それを教えたくて、ここにお前を連れて来た」
確かに先生は、わたしの事を知らなかった。
しかし、それがもし罪ならば、わたしはもっと大きな罪を抱えている事に他ならない。
わたしは、わたしが経験した事以外、何も知らないのだから。
どれだけ逃げても、どれだけ悔やんでも、その罪は付き纏う。
その贖いを、終えるまで。
「……だとしても、花には何の罪もありませんから」
「…………そうだな。俺も、そう思う」
先生は諦めたように――少しだけ嬉しそうに鼻を鳴らした。
「それじゃ、そのスコップで折れた花を根元から掘り起こしてくれると助かる。俺は散らばった葉と花を拾いながら、土を均すから」
初夏の日差しの中、わたし達は作業を続けた。
ただひたすらに、贖罪の念と弔いの意を心に込めて。