痛みを知る少女④
湊さんのおかげで、なんとかホームルーム開始の前に学校に辿り着く事が出来た。校内まで入るワケにはいかない、と言う事で、湊さんとは校門で別れたのだが。
「……これは、下駄箱。それは、わかるけど……」
大きな昇降口にずらりと並んだおびただしい数の靴入れ。ここで下足と上履きを履き替える、その必要性は理解しているのだが。
問題は、どこに入れればいいのか、である。
わたしには弓削絆の下足スペースがどこに割り振られているのかがわからない。
――予鈴が鳴る。
しかし、わたしはこれ以上歩を進める事が出来ない。
困り果て、下足のローファーと昇降口の固い床で音を鳴らし、歩き回るのが精一杯の抵抗だった。
「何だ、まだ誰か昇降口に居るのか?」
その時、たまたま通りかかったジャージ姿の中年男性の姿が見えた。安堵の息を漏らしたのも束の間、その中年男性はわたしの姿を見るや否や、凄まじい剣幕で詰め寄って来た。
「……ッ!? お前、髪の染色と脱色は校則で禁じられているだろう! なんでこんな真似を……まさか、俺に対する当て付けか⁉」
呆気に取られる、が正しい表現だろうか。
わたしが呆然としていると、あれよあれよと言う間に、生活指導室と書かれた部屋まで無理矢理連れて来られていた。
持参した上履きを今履いているが、どこでローファーから履き替えたのか覚えていない程、わたしは上の空だった。
中年男性は扉を乱暴に開け放ち、どっかりとイスに身を置く。
「学年とクラス、出席番号、名前は?」
散らかったデスクの上の『要注意生徒』と書かれたファイルを開き、ボールペンで紙面を叩く中年男性。
恐らく生活指導と呼ばれる担当の教員なのだろう。入院している際にテレビで見たドラマに似た事をしている。一般的では無い髪の毛の色のわたしを指導対象に分類した、のだと思われる。
妙な既視感に戸惑いながら、話を聞いてもらう為に口を開いたのだが……。
「えっと……その前に……」
「こっちが先に聞いてるんだろう⁉ 学年! クラス! 出席番号‼ 名前は⁉」
バチン、と大きな音を立ててファイルがデスクに叩き付けられる。条件反射で身体がビクッとなった。問われている事の大半に答えられない現状をどうしたらいいか、上手く回らない頭で何度も考えた。
咄嗟の事に翻弄される頭は、下手な抵抗をするより、要求に応えた方が良いと判断する。
「……名前……名前は……弓削、絆です」
「ゆげ、きずな……ここには無い名前だな……どっかで聞いた様な気もするが……」
平仮名で乱雑に書かれた弓削絆の名前は、わたしを示しているとは考えにくいモノだった。
――いや。
本当に、乱雑だから、漢字ではないから?
その文字の羅列が自分じゃないと思ったのだろうか。
――きっと、違う。
この状況になって、改めて思う。
わたしは、他の人達が知る弓削絆じゃない。
それは、既に失われているのだから。
だからわたしは、ここまで取り戻しに来たのだから。
「すみません」
「……あん?」
「わたしは……」
家族のみんなが元々愛していたのは、今までの家族として接していた『過去を持つ弓削絆』のハズだ。
そしてあの人達は優しいから、失われても変わらない愛と優しさを、わたしに注いでくれていたのだろう。
琴葉はきっと、その上でわたしにも目を向けてくれていた。本当に感謝しているし、その心遣いに報いたいとも思っている。
だからこそ、あの家で弓削絆として過ごす事に、強い罪悪感を心に抱いていたのだ。
弓削家の長女が享受し、感じるハズの愛を、わたしが代わりに受け取っている。そんな途方も無い罪悪感を。
わたしはきっと、様々な理由に託けて、その重圧から逃げたのだ。
弓削家の人達の優しさにありがたみを感じていたからこそ、恩返しをしたいと思ったのは本音で、間違いなくわたしの気持ちだ。
ただし、その思いの裏には、あの家を離れれば、わたしはわたしで居られると言う考えが、確かにあった。
その判断は甘かった、そう感じざるを得ない。外ではきっと、家以上に『弓削絆』が求められている。
だって――他人には、わたしの事情なんて、知った事ではないのだから。
「……わたしは……‼」
あの夜に決心したのは、弓削絆を取り戻す事。
それはつまり、わたしが弓削絆である事の否定でもあったのだ。
担任の先生には、お母さん――違う、弓削絆の母だ――が話をしてくれている。その条件下であれば、『過去を持たない誰か』の地位を得られただろう。それを期待して、わたしはここにやって来た。
だが、それが行き届いていなければ、学校に居る限りわたしは『過去を持った弓削絆』なのだ。
あの、わたしが守るべき家族が愛した、彼女そのものだ。
わたしがどれだけ無知を自覚し、自戒し、自暴していても。
それは弓削絆の起こした行動に他ならない。
わたしは、乱雑に書かれた文字を見る。
『ゆげきずな』
わたしが安易に名乗ったから、『要注意生徒』にその名前が記された。
都合が悪くなった時、自分では無いと決別した名を、名前を持たないわたしの免罪符として利用した証だ。
それはわたしが背負うハズの罪を、弓削絆に押し付けてしまった事を意味していた。
――守らなければ。あの人達が愛した、彼女を。
「わたしは……弓削絆じゃ、ありません……‼」
「お前……教師をバカにしてるのか⁉」
違う。
バカなのは、他でもないわたしだ。
わたしをわたしだと自覚しているのは、ここに居るわたしだけなのに。
そんな過去を持たない朧気なわたしが、弓削絆であっていいハズが無い。
それはそうだ。だからここまで来て、取り戻そうとしているのだ。
では、改めて問おう――。
――わたしは、誰?
「わっ……あ、あっ……ぁ……ぁああああああッ……!!!!」
せき止めていたダムが決壊した様に、溜め込んでいた感情が溢れ出した。
視界が滲み、やがて目元から涙がとめどなく零れ落ちて行く。
中年男性の声はどんどんと大きくなって行く。身体を支えるだけの力を失ったわたしがへたり込み、耳を塞いでも、叱責は止まらなかった。
泣けば許されると思っているのか。
他の人になすりつければ、自分は逃げ切れると思ったのか。
わたしに対して投げ掛けられた問いは、穴が空いている心に、刃となって突き刺さる。
弓削絆ではなくなった――ただ、何者でもないわたしの心をズタズタに引き裂いてもまだ、止まらない。
涙の止め方も、問い掛けに対する答えも、どうすればいいのかわからない。
自分を貫く代償の痛みに耐えられない程弱く、名前すら持たないわたしは。
――ごめんなさい。
そう、繰り返し言い続ける事しか、出来なかった。