前に進むということ⑦
殺風景なわたしの部屋。座布団が無い為、布団を用意して対話の場所をセッティングした。
待っている間は、正直言って手持無沙汰だった。それ程何も無い部屋に、わたしは拠点を構えている。
そこで、この部屋に何か残されていないかとあちこちを漁ってみたが、収穫は無かった。クローゼットや、高い位置にある押入れ等、手当たり次第を探ったのだが、紙の一枚すらも出て来ない。
しかし、ここまで来ると発想が逆転出来る。何も無い部屋――恐らく、学習机等だってあったハズ――に、何故本棚と収納ボックスだけが残されているのか。
本棚や収納ボックスが失われていないのには、何か理由がある。そう考えるのは自然な事だろう。
「でも、なんで……?」
こんこん。
ドアをノックする音が、思慮を張り巡らせた脳裏から現実に引き戻す。
『お姉ちゃん? 入って良い?』
「あ、うん。どうぞ」
「お邪魔しまー……って、なんだコレ⁉」
扉を開き、入って来た琴葉が部屋を見て驚愕する。両親の反応と合わせても、この部屋はもっと生活感に溢れていたのだろう。
「……取りあえず、扉閉めてもらってもいい?」
開け放たれた扉を指差しながら、視線で静かにする様に訴えかけた。
「あ、ゴメンゴメン」
気付いてくれたのか、声を少し抑えながら扉を閉める琴葉。妹にまで気を遣わせて申し訳なく思うが、それでも両親に無駄な心労をかけさせたくないわたしが居た。
「どうぞ、座って」
「……え、これ……お姉ちゃんの布団だよね?」
「そうだけど……嫌だった?」
「ううん、全然‼ 寧ろウェルカム‼ 頂きます‼」
敷かれた布団に飛びつき、弄りながら顔を埋める琴葉。
「あはー‼ 何コレすっげぇ良い匂いなんですけど‼ いかんいかん‼ 脳髄とろける‼」
成る程、弓削絆はこの変態に布団への侵入許可を与えていなかったのだ。こうなる事が目に見えていたが故。
「……はあ」
失敗を悔やみながら、琴葉の居ない枕側に座り込む。それを感じ取ったのか、布団に包まった状態で琴葉がわたしに向き直った。
「それで、さっきの質問の答えは?」
ふざけた亀の擬態のまま、よくもそれだけの真面目な顔が出来るモノだと感心を覚えた。
気にしたら負けだと思い、髪の毛を弄りながら、口を開く。
「……その、ね? 聞いて、もしかしたら、気を悪くするかもしれない」
話を聞いて貰う――その為に、琴葉をここへ呼び出した。
にも関わらずわたしは、予防線を張っている。
少しでも自分の責任を軽くする為に。
「え? するワケないじゃん」
琴葉のあっけらかんとした言葉が、罪悪感を掻き消す様に。
心に風が吹き込んで、空いた隙間に染み入った。
「わたしには……あの人達と、親子として築いた思い出が、無いんだよ」
「あー、それでか。確かに、知らない人が急にあなたの親ですよって言って来ても、困惑するのがオチだね……むしろ、気持ち悪いとか?」
「そ、そんな風には……」
「違う? そんな風に、ぜんぜん、思ってない?」
「……っ」
ちがう。
たった三文字の言葉すら紡げず、押し黙る。
纏った布団を外し、わたしに座って視線を投げかける琴葉。
「……お姉ちゃん。今、パパもママも、ここには居ないから。お姉ちゃんの辛そうな顔見てれば、なんとなくわかっちゃうもん」
「……………………うん。少しだけ……戸惑ってる……気持ち悪いとかは、さすがにないけど……どうしていいか、わからない感じ」
最初から、わかっていた。
わたしを絆と呼び、愛そうとしてくれる優しさに惑わされる事が無ければ、もっと簡潔に答えは出せていたのだろう。
故に、わたしは問うたではないか。
――あなたは、だれ?
「……わたしは記憶を失う前、あの人達に何をされて来たのかわからないし、逆に何をして来たのかもわからない。なのに、親子の関係にあるって言う事実だけそこにあって……」
ぽつり、ぽつりと言葉が溢れ出る。
止めようとして、止まるモノでは無かった。
「それだけ?」
そんな状態のわたしに、拍車を掛ける様な問い。
喉元の枷が外れた状態では、それに堪えうる策も無く。
「……あの人達の娘として振舞えば振舞う程、記憶が無い事に触れる度、きっと傷付けてしまう」
それはきっと、失った記憶の数だけ訪れる。
それはきっと、抱いた愛情の分だけ訪れる。
だから記憶が戻るまで、親子としては距離を取るべきだ。そう考えた事も、敬語を使う理由の一つだった。
「全く、お姉ちゃんは……しょうがない子だなぁ」
琴葉は小さく呟き、わたしをそっと抱きしめた。
衣服を通して伝わる温もりが、身体を弛緩させて行く。
「……ねえ。こうやって抱き着かれるの、嫌じゃない?」
「……うん」
「なら、大丈夫だね」
「どうして、そう思うの?」
「お姉ちゃんが、『他人』を拒んでいないから。この状況なら、どんな風にもなれるはずだよ」
琴葉は、わたしの肩をたんたんと叩く。
「いつか全部、解決出来るよ。私が保証するから、安心して」
きっとこの心は産まれたての赤ん坊の様に、人知れず温もりを求めていた。
ただわたしは、この世に生を得たばかりの彼らとは違い、誰かに伝えなかっただけ。
こうして温もりを与えてくれる誰かを待つばかりで。
卑怯だと、自分でそう思った。
「でもお姉ちゃんにとって、私って今日初めて出会った美少女だよね? ダメだよ、こんなホイホイと身体を許しちゃ。ただでさえお姉ちゃん、オトコ見る目が無いんだからさ」
「……うん。自分で自分を美少女だ、なんて言う不審者には気を付ける」
「それなら安心。お姉ちゃんは世界で一番かわいい女の子なんだから、気を付けてね」
琴葉の指先が、わたしの背骨を這う様になぞる。ぞわりとした感覚に思わず身を捩ったが、抱き着かれて上手く逃げる事が出来なかった。
「ふふ。やっぱりお姉ちゃんは、記憶を失ってもお姉ちゃんだ。優しい所とか、弱い所とか、全然変わらないもん」
「んっ……で、でも、わたしは……」
「まあ、その、なんだ……思い出が無くなってるってのは、確かにちょっぴり寂しいけどさ」
わたしの言葉を遮る様に琴葉が続ける。
「パパとママがどう思ってるのかは、流石に聞いてみないとわかんないけど。今お姉ちゃんが――ううん、例えあなたが今はもう『私のお姉ちゃん』じゃなくても」
琴葉の、わたしを抱く手に力が籠った。
「あなたがこうしてここに居る。私は、それでいいや。ホントに、無事で良かった……‼」
「……」
その言葉に何かを返せるワケでも無く、わたしは琴葉の寝間着の背中を握る。
わたしが自分の心境を語るのに、琴葉を選んだ理由。それはきっと、この子なら『わたし』を受け入れてくれるのでは、と期待していたからだ。
わたしの読みは正しく、それでいて打算的だったと言える。
琴葉の滲み出る好意を逆手に取った――惚れた弱みに付け込んだ、悪女の如き企み。
掻き消されたハズの罪悪感が、わたしの心で渦を生み、逆巻いた。
琴葉は何も言わず、わたしの傍に居てくれる。
でもいつか、全てと向き合わなければ時が来る。
わたしはそんな漠然とした、しかし、確かな決断の時の存在を感じ取っていた。




