前に進むということ⑥
お風呂から上がり、脱衣所で着衣を整える。最初は入院中で、身体を冷やす程時間をかけた挙句、看護師さんが脱衣所に入って来るまで途方に暮れていた。
それに比べれば、随分スムーズになったと思う。未だに下着の着用には苦戦させられる事を除けば、だが。
パジャマに袖を通した後、鏡を確認しながらドライヤーで髪を丁寧に乾かす。わたしの髪は短い為、それ程複雑な動作を要しないのは幸いだった。
そのおかげで初めて髪を乾かした時から、そつなくこなせていたと思う。
ドライヤーの温風を当てながら、考え込んだ。
――そう言えば、わたしはどこまでの動作が自力で行えて、どこからが介助を必要とするのだろうか。
リハビリをしていた期間、病院で判明した事。それは、わたしは現在、エピソード記憶が欠如しているが、簡単な動作や文字、知識には影響が無いと言う事ぐらいだ。
大雑把に言えば、リンゴと言う単語が何を指しているのかはわかるが、リンゴを食べた事や触った事が無い、と言った状態らしい。
記憶喪失には様々なケースがあるから一概には言えないのだとか。主治医の方から両親は聞かされていた様なのだが、何故かわたしに深い詮索をして来なかった。
恐らく、わたしに気を遣っての事だろうが。
数日でも一緒に過ごして居れば、すぐにわかってしまう程、あの人達の優しさは大きい。
複雑な動作を要する行為が行えない。それに気付けたのは偶然で、入浴終わりに介助してくれていた看護師さんが、ナースコールで呼ばれてどこかに行ってしまったからだ。
下着姿のまま、洋服の着方がよく分からず、ただ途方にくれるだけ。そうして、帰って来た看護師さんにびっくりされて――自分の『何も出来なさ』に気付いた。
わたしが知ろうとして知った事ではない。
その後リハビリ室で行われた運動検査では、日常生活を送るのに問題は無いと判断された事で、両親とわたし双方が安心してしまった。
しかし、これから新天地に飛び出そうと言うのだ。精査しておくに越した事は無いだろう。時間を見て、出来なくて困る事が無いか、探しておいた方がいいかもしれない。
「あっつい⁉」
随分考えに耽っていた様だ。長い間同じ場所に温風を当て続けていたせいか、側頭部が焼けた様に熱くなっていた。
――ドライヤー中に考え事は危険だと、また一つ学んだ。
「お姉ちゃん? 何一人で騒いでんの?」
引き戸が無造作に開けられ、廊下から琴葉が着替えを持って脱衣所に入って来た。
「いや、なんでもない‼ ちょっとボーっとしてただけだから」
「ふーん。気を付けなよ?」
服を脱いだり、髪を束ねたり。テキパキと入浴の準備をしていく琴葉の姿を見ながらドライヤーを続行する。
わたしの視線に気付いたのか、琴葉はこちらに目を向け、悪戯っぽく笑った。
「何? 私の姿に見惚れちゃった?」
「……いや、多分違う、と思うけど」
どちらかと言えば、憧れに近い。髪が長くて綺麗だし、すらりと伸びた背、引き締まった肢体。わたしが、と言うより女性の本能かもしれない。
だからこそ、心の引っ掛かりが違和感を増した。
「……なんでさっき……わたしの……その……汗の臭い、嗅いだの……?」
容姿端麗とは、目の前にあるモノを指す言葉だと思う。だが、わたしの脳裏には琴葉の理解出来ない行動の記憶が焼き付いている。素直に見たままの情報で判断する事は、最早不可能だった。
「あー、それはまあ、それとしてさ。お姉ちゃん、明るい所で見ると、キレイな髪だね。夜に見る、積もった雪みたいで幻想的って感じ」
かなり無理矢理話をはぐらかされたが、褒められて悪い気はしなかった。
本来この髪は、琴葉やお母さんの様に黒だったと聞く。
しかし、頭部へのショックの影響なのか、色が抜け落ちてしまった。
だからこの白い髪は、わたしの象徴でもある。
弓削絆としてではなく、わたしと言う何かを表す、数少ない証だ。それを褒められると、なんだかくすぐったい気分だった。
「……ありがとう」
「うっわ、イイよお姉ちゃん。その照れ顔だけでご飯三杯ぐらいイケちゃうね」
「……」
折角の褒められた余韻が台無しだ。わたしはそっぽを向いて、髪を乾かすのに専念した。
琴葉が支度を整え、風呂に通じる扉を開けたのと同時に、ドライヤーの電源を切る。
「ねえ、お姉ちゃん?」
用も終え、足早に立ち去ろうとした矢先、琴葉に声を掛けられた。
つい先程のわたしをからかっていた口調とは違う、真面目なトーンだった。
「……何?」
「記憶が無いってのは元々聞いてたし、わかってるつもり。でも、お姉ちゃんはお姉ちゃんのハズでしょ? なんで、パパとママに敬語使うの?」
風呂場に入ったにも関わらず、琴葉はシャワーを一度も使っていない。わたしに尋ねたい事があったのは明らかだ。
「……それは」
思わず言い淀む。家族に、こんな事を言って大丈夫なモノだろうか、と良心が騒ぎ立てる。
それでも、この子なら、わたしの言葉を受け止めてくれるんじゃないか。
そんな心の弱みが湧き出している。
記憶を失っているわたしと接していても、苦悶の表情を浮かべない琴葉。
出会って間もないハズの、天真爛漫な彼女に対して、知らず知らずのうちに心を開いてしまっていたのだろう。
きっと、そんな彼女に褒められてしまったから。
弓削絆としてではなく――わたしを。
「後で、わたしの部屋に来て」
そう言い残して、わたしは脱衣所を後にする。
深い理由は必要なかった。
ただ、わたしが話を聞いてもらいたかっただけなのだ。




