上編
夜馬車の中で少女は表情も固く、唇を引き結び、顔色は真っ青だった。
暗い車内には彼女と侍女が座っている。侍女は状況が明らかになると怯えて泣いている姿を見て、背中をさすっていた。
御者が全速力で山路を走らせている。複数の蹄の音がすぐ背後に迫っている。この馬車が追いつかれるのは時間の問題である。
少女は深く行きを吐いて決意を決めると、馬車の窓から顔を出し、馬を逸らせる御者にこっそりと指示した。
「馬車を止めなさい。
……リリー、持参の有り金を出して。貴方は床で体を伏せていなさい」
「ソフィア様!? ですが……」
「御者の指示があるまで伏したまま動いてはいけませんよ? ……大丈夫、必ず助かりますわ」
馬車が止まる様子を見せると背後かの追跡者達も減速し、馬車を取り囲む。
ソフィアは優雅な所作でタラップを降りて馬車を降りる。その様子を見て追跡者はかすかにざわついたが、奇妙にも喋ることはなかった。
両手に大きな鞄とランプを掲げ、貴族令嬢にあるまじき声量で声を張り上げた。
「……何者かは存じませんが、我々が持つ全金品はこの鞄の中です! これが欲しくば――」
言うやいなや、ソフィアは渾身の力で鞄を高く放り投げ、近くの茂みに向かって駆け出した。
ソフィアと鞄に一瞬気を取られた隙に、御者は彼女の指示に従い侍女を伴って馬車を捨て、馬のみで勢いよく駆け出す。何を追っていいのかわからなくなった追跡者達はたじろいだが、鞄に向かうものが多く、その次にソフィアを追うものが多かった。
御者と侍女が逃げ切れることを願いながら必死でソフィアは疾走した。こんなところで兄弟と鬼ごっこをして遊んだ淑女にあるまじき健脚が役立つとは思いもよらなかったが、自分は影の薄さを利用したかくれんぼの方が強かったなと遠い昔を思い出していた。
人の足が馬に追いつかれないわけがないのだ。そしてその瞬間は呆気なくやってきた。
「ぐぅっ……!」
背中に強い衝撃と、熱が迸る。
それはやがて激痛に変わり、ソフィアはその場に勢いよくうつ伏せに倒れた。
肩を背後から矢で撃たれたのはどこかで理解できた。多分すぐには死なないが、自分のような女には十分な致命傷であることも分かる。
生死が関わるほど人はどこか冷静になるものだ……と、ソフィアは思った。
「おいおい! まだ殺すなよ……せっかく楽しめると思ったのによぉ」
「しょうがねえだろ、この黒髪の女を殺して、髪を持ち帰れっつう命令だろうが。
女なんか金が入れば街でいくらでも遊べるじゃねえか」
どくんどくんと脈打つ痛みに歯を食いしばり震えながら、ソフィアは無事な左肩のみでずるずると地面を這っていた。こんな所死にたくはない。
「ハハハ、まだ動けるみてえだぞ? 虫みてえになってんな」
「おー、根性あるな嬢ちゃん」
ソフィアを取り囲む男達が下卑た笑いを上げていた。
「う……ぁっ……!」
男の一人がソフィアの髪を鷲掴み、手持ちの剣でざっくり切り落とすと、そのまま足で蹴りながら肩の矢を抜いた。
「!? ~~~~っ! つっ!」
ソフィアは激痛に耐えられず、声にならない悲鳴を上げながらびくびくと体を揺する。
「おし、これで一丁あがり。矢も抜いたし、……コイツは放っといてもこの小柄なら失血で死ぬわな」
「ちげえねえわ」
「綺麗な『お髪』も頂戴したし、帰って金もらって酒でも買うかあ~」
確かにソフィアは痛みでもう少しも動くことは出来なかった。許されるならのたうち回りたいぐらい苦しいかった。
生暖かい血がじわじわ服を濡らして冷えていく。決して浅くない傷は矢を抜かれたことで血がとめどなく溢れ、やがて恐ろしいほどの寒気が体を支配し、呼吸が浅くなり、目がどんどん霞んでくる。
◇◇◇◇◇
いつもなら静かな夜がやけに騒がしく不審であったため、男は森を歩いていた。
半刻ほど歩いた頃だろうか、違和感はかすかな夜風に乗ってやってくる。血の匂いだ。
「……ここか」
低い木枝をかき分けると、むわっと血の匂いが立ち込めていた。
ランプで照らし出すと、白い手がまず目に入る。
他に気配がないことを警戒して更に奥に踏み込むと、それが若い女であることが分かった。
女は黒い髪は乱暴に切り落とされ、肩からおびただしい量の出血をしていてぴくりとも動かないが、首に触れるとまだかすかに暖かく、弱々しいながらも脈を感じ取れる。
女は辛うじて生きていた。しかしこの出血量では長くないことが男には見て取れた。
「おい、お前、意識はあるか」
顔に手をかざして息があることを確かめ、土まみれの女の頬を軽く叩く。すると微かに顔をしかめ、浅く呼吸をしながら体を震わせた。
「いっ……う……」
「これはどうした、物取りか」
「……わか……な……い」
「名は名乗れるか?」
「……ソフィ……ア……バルド、メラ……」
男は慣れた様子でてきぱきと肩に布を当てて止血を施し、意識を失わせないように声をかけた。
止血している布の上から矢のものと思しき傷に手をかざすと、手のひらから柔らかな光が溢れた。
温かい緑の光は液体のように溢れ、じわじわとソフィアの肩に染み込んでいく。
「っ! はーっ、はあっ……!」
「痛みが引いたか」
「は、い……っ
う、う、ううう……っ」
ソフィアは悲鳴をあげもせず気丈に耐えていたが、命は助かったと悟ったのだろう、傷を癒やされながらこらえきれず、男の足にしがみついてぼろぼろと涙を零している。
「……おい泣くな、体内の水分を使うんじゃない。今体内の水から急速に血作ってるんだぞ。
とりあえずお前を俺の家に運ぼうと思うが、それでいいか」
「い、依存ありません……ご迷惑、おかけします……」
肩が動かないよう固定し終わると、男は失血で冷えたソフィアをローブに包み、荷物のように肩に担いだ。
ソフィアはぴたりと泣くのを止め、気を失ったのか黙ったのかは分からないが静かになり、回復術が効いたのか痛みに呻くこともなかった。
◇◇◇◇◇
夢を見ていた。二年前の出来事だ。
ソフィア・バルドーメラは子爵家の一女だ。バルドーメラは男が多い家系で多くの騎士を排出している。
そのため貴族的な華やかさはなく、調度品の代わりに盾が飾られているような粗野な家で育った。
そんな環境で育った健康な女子ソフィアは兄弟とともに野山を駆け回ったり、家でも裁縫などはせず読書ばかりに時間を費やすたいへん変わった娘だった。
そんなやんちゃであったソフィアにも過去婚約者がいた。子供の頃から決められた幼馴染のような貴族とのそれに対し、ソフィアは特に何の感慨も持っていなかった。
貴族とはこういうもの、血筋を残すことも貴族として大変重要な義務であるということは理解していた。
しかし義務感だけではどうにもならなかったのは、他でもない婚約者の心移りだった。
あろうことか彼は半年もソフィアと合わず、果ては手紙すら寄越さなくなったため、ソフィアは病気療養なのかもしれないと大変心配した。
先触れを出して様子を伺いに行った時、そこには美しく色気立つ赤い髪の女性と体を寄せ合い、仲睦まじく微笑み合う幼馴染の姿があった。
その後大した期間を置かず、彼はソフィアとの婚約を解消した。
ソフィアは特に何の感慨も抱かなかった。返事のない手紙の内容に頭を悩ませたり、焦れるような心配をしなくても良くなったことでどこかホッとしていた。
屋敷の裏の山林を駆け巡って新種の植物を探してスケッチしたり、家にこもって本を読む生活に戻れたことで大変満足で、そこに不満はない。
でももうケチがついてしまったし、結婚は無理だろうな……
小高い山の上から屋敷を見下ろしながら、ソフィアはそんな事をぽりりと考えた。
暗い視界。
重たい瞼を押し上げてうっすら目を開けると、ランプの黄色い明かりに照らされた金の髪が目に入った。
ひどく端正な面差し、どこか心配そうな眼差しで覗き込む不思議な藤色の瞳は、片方が黒い眼帯で隠れている。
ソフィアは直感で、この人が私を救ってくれたのだ、と気がついた。
胸いっぱいの感謝を伝えたいのに、口も手も動かない。
◇◇◇◇◇
ソフィアが男の家に担ぎ込まれてのち、10日が経っていた。
当初は食べ物すら戻してしまうほど衰弱していたソフィアも、男の回復術の助けもあって普通に食べて歩けるまでに回復していた。
男は胸の前で腕を組みながら、もぬけの殻になっているベッドを見ていた。
「あいつは何処に行ったんだ……?」
男の背後で玄関ドアが開いた。ソフィアは手に木桶を抱えながら家に入ってくる。
男はぎょっと振り返ると、ソフィアはにっこり笑った。
「カイン様、只今戻りました」
「おっお前……もう体調は良いのか?」
「はい、とても調子が良くて森で食べられそうなものを収穫してきました」
カインと呼ばれた男はげんなりしながら、差し出された木の桶を受け取りその中を見ると、目を見張った。
食べられる葉や茎、丁度熟した木の実、薬になるハーブまで多種揃っている。
毒のもの、食べられないものは一切無く、野草を的確に知り尽くしているとしか思えない。
「薬師か何かなのか? お前……」
「いいえ、しがない貴族の娘です。
……とはいえ、このようなお礼しか出来ないので信じる信じないはお任せしますが」
「はあ?」
最近までまるまる3日熱にうなされ、3日眠り続け、更に3日介抱が必要だったとは思えないほどはきはきとソフィアは回答した。
カインは藤色の目を見開いたまま、開いた口が塞がらない。貴族令嬢に花のない草木の見分け方が分かるとは到底思えなかった。
「ベッドに血を付けてしまって本当に申し訳ございません。必ずお返ししますので……」
「……いや、別にいい」
「そういう訳にはいきません。命を救ってもらったばかりか、ベッドをずっと占領してしまって……
そうですわ! 私、今日からは床で寝ますので!」
「はあぁ!?」
自分のことを貴族だとのたまった女が、次の句で床にゴロ寝宣言をする展開に、カインは完全に置き去りにされていた。返答にも窮してるとソフィアは洗濯してきますわ! と、揚々と再び家を出ていった。
カインから借りているサイズオーバーな服をどうにか着ているソフィアは、すでに折ってある袖をぐっとたくし上げた。
「……
ま、元気になったならいっかな」
カインはふっと笑い、井戸から水を汲んでいるソフィアを手伝うことにした。
動ける様になった途端ガンガン働きだすソフィアを、彼は好ましく思っていた。
少し歩いては足が痛いですわ喉が渇きましたわ。などと言われるよりは百倍ましだし、食べられる草や実は正直有り難い。朗らかなのに気丈な、働き者で床寝OKな、誰かに殺されかけていた自称貴族の娘。
カインは長いこと一人でこの樹海に居を構えていたが、人との交流はここに来てからは皆無だった。
特にそれに問題があるとは思えなかったし、今後も引っ越す予定はない。
だが人が来たと思ったらこんなにあっさり馴染むものとも予想していなかった。
楽しい誤算だ。
◇◇◇◇◇
カインは物心ついた頃から癒しの力を持っていた。
治癒術は古来より大変貴重な存在で、発見されたと同時に協会に召し上げられる。
それを知ってか知らずか、はたまた彼の居た環境が少々特殊だった経緯からか、協会に入れられることは無かった。
ただ治癒の力があったところで、大して良いことは起こらない。この奇跡のように見える力も、万能ではないことを誰しも理解できるわけでもなかった。
力を隠すことにも飽き、権力の渦の中心のような環境にも疲れ果て、カインは若くして何もかも捨てさり、自らすすんで樹海の奥に篭った。
現在の彼の居場所を知っているのはこの国の王ぐらいのもので、あとは誰からも忘れられた存在になっているだろうとカインは思った。
そろそろこの『拾い物』も、持ち主に返さなければならない時が来るだろう。
◇◇◇◇◇
カインの物置小屋の掃除をしていたソフィアは、驚くべきものを発見した。
「剣ですわね……」
騎士として国に従事する兄弟がよく使っていたものと近い、大振りの剣が一つ。
てっきり隠遁術士だと思っていたら、彼は騎士だったのか。確かにカインの体格は大変大きい。失血しているソフィアをひょいと担ぐだけの力もある。
「……」
よく使い込まれた、とても美しい剣にソフィアは手を伸ばそうとしてやめた。
騎士は自分の剣をみだりに触られることを嫌うのは、兄弟の経験則として理解していたからだ。
「おーい、お前が持ってきた実でジュース絞った……あ?
お前、静かだと思ったらこんな所にいたのかよ」
「カイン様、昨日許可して頂いた倉庫の掃除をしておりましたの」
「お前も物好きだな……
んで、俺の剣見て何か楽しいのか?」
ソフィアの目の前には立てて置かれた一振りの剣。
また懐かしいもんが出てきた……とカインは思った。
「はい、非常に興味があります。
我が家は代々国の騎士を多く排出しておりますから」
「…………」
カインは使い慣れていた剣を取り、鞘から抜いた。
「まあ! とても素晴らしい手入れをなさっていますのね」
「お前は……本当にすごく変わってるよな」
ソフィアはカインの横に近づき、うっとりと刀身を見つめている。
「剣が好きなのか?」
「剣……というより、愛着を持って使い込まれた、手入れの行き届いている道具が好きなのだと思います」
「なるほどな」
確かにソフィアはカインの家の道具を丁寧に扱っている。
フォーク一つにも洗った後布で丁寧に拭き取り、まるで銀のカトラリーかのように扱う。
貴族というより執事かもしれないと思うほど、どの作業にも手慣れていて所作が優雅だった。
カインはそっと剣を鞘に仕舞い、また同じ場所に立てておく。
ソフィアは剣にみだりに触れようとはせず、まるで宝物のように眺めていた。
◇◇◇◇◇
そろそろ帰らなければ……
お礼と称して家中の掃除を開始して、それをもう終えてしまった。
食料を取ってきても、そろそろ限度があるとソフィアは思った。
床で寝ると言ったのにベッドで寝るよう頑として譲らなかったり、掃除などの時には体調に気を使ってくれたカインに対して、ソフィアは感謝以上の感情を持ってしまった。
「優しくて、命を救ってくれて、寝ずに介抱してくれて、一緒にいると楽しくて
そんなカイン様のことを……私は……」
彼が何者であれ、許される関係ではないだろう事はソフィアにも分かっていた。
彼も樹海に住む以上、何かを心に隠して生きていて、そこにソフィアを抱え込む余裕は無いだろうと思うと、心はじくじくと傷んだ。
婚約者は薔薇のような匂いたつ赤い髪の女性に恋をしていた。ソフィアは彼がどこか羨ましく思えた。
今、同じ心がソフィアにも芽生えたのだとすれば、それがカインに受け入れられ無いのだとすれば、とてもではないがもう一緒には居られない。
別れの時が来たのだと、ソフィアは痛む胸にそっと手をやった。
「……帰る?」
「はい……本当に長らく、お世話になりました。
大変申し訳ございませんが、カイン様には樹海の出口まで送ってほしいのです」
「…………」
カインはソフィアの帰宅については依存は無かった。しかし、帰れるようになったにもかかわらず、随分とその表情が暗い。
「嫌なのか? 家」
「え?」
「帰りたくない理由があるのか?」
「えっと……それは……」
ソフィアがたじろぐ様子に、確定だな。と、カインは呟く。
カインはソフィアが帰りたくないのだと結論付けた。
「……樹海の麓からお前の家までどの程度かは分からんが、いいだろう。家まで送ってやる」
「……! 本当ですか?」
「!? ん? ああ……」
さっきまで肩を落としていたソフィアは、カインの提案にぱっと明るく元気になる。
カインは面食らいながらも、旅の支度を始めることにした。
月一の買い出しで樹海の最寄りの集落までは出ているが、それ以上に足を伸ばすのはいつ振りか覚えていない程昔のことだった。