第三部
書き方不安定。
これでやっと20分の1かぁ
丘がある。
市の中心にやや近いところ、平坦な土地に生まれた膨らみは、その表面に様々な建物を背負っている。その中には、フェンスと塀に縁取られた建造物があった。
学校だ。
広々とした校庭と斜陽に照らされ赤く色づいた校舎は、その内に人影を抱えていた。
部活動に励む生徒達の姿がそこにはある。
彼等を見守るように、西側に開かれた正門の脇には巨大な桜の木が植えられていた。寒緋桜は夏の夕暮れに当てられて、その巨体を朱に染め上げている。
結局、納得はいかないままだった。
練習が終わり、コーチがプールサイドに部員達を集めた。ミーティング中、皆の意識がプールを背に話を進めるコーチに注がれる間、冬樹はジィッとそのむこうで波打っている水面を見ていた。
こうしていると何も考えないで良いような気がした。散漫な意識も乱雑な思考も、全てが平坦になった。胸に巣くうこの焦りや憤り、苛立ちもそうしている間は忘れることが出来たのかもしれない。
ミーティングが終わると、彼等は皆キャップとゴーグルを外した。シャワーを浴びに行く者。プールサイドにへたれこむ者。クーラーボックスから取り出したペットボトルに口をつける者。中にはコーチにアドバイスを貰いに行く者もいた。
しかし、彼等の足取りは、まるで何かが始まるのを待っているかのようにソワソワと、それでいて静かな一体感を持っている。チラリチラリとこちらの様子を窺う気配が伝わってくる。プールサイド全体の意識が、何かの始まりに身構えていた。だが、暫くの後彼等の集中は霧散した。その時になって初めて、失望と落胆を孕みながら部員達は緊張を体から逃がしていく。
冬樹は未だプールを眺めていた。
あの後、午後からの練習に冬樹は無理を言って参加させてもらった。ジリジリと高い日射しが降り注ぐ中、ヒンヤリとした水に体をつけていると、それだけで気分が幾らか和らいだような感覚に陥る。ところが泳ごうとキャップを被り、ゴーグルをつけ、レンズ越しに奥に続くレーンとそれを仕切るロープを見ると、冬樹はまるで逃げ場を失ったかのような気持ちになった。短水路の端、二十五メートル向こう側に人型のシルエットがちらついて、冬樹はまた躍起になって体を動かした。
また消化した。
冬樹は夕暮れに染まる西の空を仰いだ。灼熱の恒星の残滓がそちらには残っている。天と地の境目に最後の最後まで残って、まばゆい光を放っている。蝉がいつまでも鳴いている。彼等はこのまま夜が更けてもずっとそうしているように思えた。
プールから音がする。レーンを向こう側に泳ぐ夏美の姿がそこにはあった。美しいフォームだ。短い短水をまるで名残惜しいとでも言うかのように、夏美はジックリと泳いでいた。
冬樹は不意に耳に届いた野球部の号令に顔を向ける。彼等の大音声を意識に捉えながら、目線は誘われるように正門脇の桜の木へと移る。
巨大な樹木の輪郭が、ギラギラと燃ゆる太陽の光にあてられて朧気だった。次の瞬間には、あの熱量に呑み込まれてしまうような気がして、冬樹は咄嗟に手に持っていたキャップを被った。
「ダメだよ冬樹君!」
キャップに続いてゴーグルを付けつつ、半歩を踏み出すと、何かが聞こえた。ふゆきくん。鼓膜を響かせたその何かは、バシャバシャという規則正しい音に遮られ、両目に突き刺さるような西日は、冬樹にゴーグルを装着させた。飛び込み台の横に立つと、黒いレンズ越しに幅広の短水路が横たわっていた。四番のレーンを泳ぐ人影が、徐々に遠のいていった。
「ダメだってば!」
声の主は、飛び込み台に足をかけた冬樹の腕を強く引いた。不意の力に冬樹はハッと我に返った。ジャワジャワと蝉が鳴いていることを思い出した。
「……千秋」
振り向くと、肩にタオルを掛けた小柄な少女がいた。彼女、向井千秋は冬樹の右手首を両手で強く握っている。眉を下げて心配そうな顔に、冬樹は冷や水を浴びせかけられた様な気分になった。微かに頭痛がした。
千秋の心痛そうな面持ちは、どこか焦っているように思えた。
「痛いよ」
千秋のヒンヤリとした指先が腕に食い込んでいる。すっかりふやけてしまった指の腹と対照的に、丸い爪は硬いままだ。
「ご、ごめん! でも、今日は倒れちゃったんだから、無理しちゃダメだよ」
慌てて千秋が手を離した。涼しい風が吹いて、冬樹に纏わり付く熱気をどこかへ連れ去っていこうとする。手を伸ばしてその尻尾を掴もうとした。伸ばしかけて、冬樹は迷いを得る。
その権利があるのか。
四番のレーンを見ると、狭まっていく幅の奥、既に夏美は二十五メートルを泳ぎ切ろうとしていた。壁のむこう、怯えているかの様に水面から顔を出したり引っ込めたりしている短水の端を越えようと彼女は泳ぐ。美しいフォームだ。
冬樹は堪らなくなった。ジリジリと突き刺すような暑さは、冬樹に大量の汗をかかせた。ゴーグルの締め付けをいつもより強く感じる。今すぐ外したかった。
「夏美ちゃん?」
横合いからの声に冬樹は夏美を視界から外した。正面に千秋を据えると、夕日は彼女の背に隠れてしまった。見えなくなった桜の木がやけに気になった。
「……井口、俺に声をかけなかったんだな」
何を言おうか。やり場のない鬱憤を忘れようと、ようやく紡ぐことの出来た言葉は核心をついていた。逆光の中に千秋の表情が隠れている。小柄なシルエットはどこか悲しげだ。
「心配したんだよ。だから声を掛けなかったんだよ」
冬樹と夏美の間には、どうして始まったのかわからないし、何故続けているのかわからないが、日課めいたものが出来ていた。ミーティング後、皆々が脱力していく間を縫って近寄ってきた夏美が冬樹を誘い、二人は一本だけ五十メートルを泳ぐのだ。
『冬君、一本どう?』
キャップとゴーグルを付けたままの夏美が、黄色いレンズの中心に冬樹を据えながら、彼女は短水を指さすのだ。冬樹はいつの間にかお約束と化していたその一本に身構えて、他の部員のように体から緊張を抜くことはなかった。肌をあぶるような熱気がそれを許さなかった。
度々、夏美は冬樹のある申し出を忘れたかのように『冬君』と彼のことを呼んだ。
「心配、か……」
クイックターン。夏美が短水路の端を蹴る。
水中に身を沈めて、やがて浮かび上がってきた指先が、こちらに徐々に迫ってくる。波止めのロープ一本を挟んだ隣の五番のレーンは凪いでいる。冬樹は、差し迫る寂寥感から逃れるかのように、五番の飛び込み台から半歩を引いた。足下でペチャリと寂しそうな音がした。
「それでふて腐れてるってわけか?」
挑戦的な声音だ。振り返ると、虎屋真春は乱暴にタオルで髪の毛を拭いていた。飛び散った水滴と、脱色した真春の茶髪が紅色に反射してキラキラしている。
「真春、先輩だよ!」
千秋の忠告を無視して、ズカズカと真春は冬樹の傍を通り抜けた。そのまま五番の飛び込み台に腰掛ける。スイムタオルと湿った髪の間からギラリとした眼光が覗く。
夕日の中を一羽のカラスが飛んでいた。カラスはグルグルと円を描くように旋回している。その中心には大きな翼を広げ大空を滑空する鳶がいた。カラスと鳶はまるで睨み合っているかのように思えた。しかし翼を何度も羽ばたかせ鳶と同じ高さに並ぶカラスの姿は、どうしてか両者の明瞭な差というものを冬樹に感じさせた。
けれど鳶の羽ばたかず気流に乗って上昇していく様は、何故かその長大な体を小さくみせた。一瞬でも気流が乱れれば、ただそれだけで鳶は墜落してしまうような脆さがそこにはある。
冬樹は真春の猛禽の様なその双眸から目を逸らすことができなかった。その瞳は逸らすことの出来ない魔力を帯びているのだろうか。それとも単純に逸らす先がないのか。冬樹は真春の目をジッと視界の中央に据えた。ジワリと肌を焦がす熱線は、冬樹の腕についた水滴をすっかり取り除いていた。全天の夕焼け空は、このプールにいる限りどこまでもついてくるのだろう。
「いいんだ、千秋。俺達の仲じゃないか」
「幼馴染みだって、そう言いたいのか」
「そうだろう」
「お前……ッ」
真春は荒々しい感情を剥き出しに、頭に乗せていたスイムタオルを乱暴に取った。タオルを握る右手は痛々しいほどに白い。手の中のタオルから水滴が溢れ出ていた。
「対等だって言いたいのか。そんなことはないって、お前が一番知っているのに!」
語気を強めながらも、真春は飛び込み台から立ち上がらなかった。斜めになっている飛び込み台の上、まるで真春はずり落ちないように必死でしがみついているかのようだ。
鳶の鳴き声が鼓膜を響かせた。独特な音の響きの裏側に、小さくカラスの鳴き声が聞こえた。
「真春も、冬樹君も、二人とも落ち着きなよ……」
千秋がオロオロとしている。ピリピリとした雰囲気に彼女は気圧されていた。
「……クソッ」
その様子に真春がにわかに脱力した。苛立たしげにタオルで体を拭く。
「俺は最初から落ち着いて、」
そんな真春の横顔を眺めながら、冬樹は強くかためられた自身の拳を認めた。見やる右手は白くなっている。手のひらに爪が食い込んで痛みを発していた。
真春越しにプールを見た。夏美が段々と近付いてくる。西日が視界を覆った。校門の寒緋桜は、まるで地平線のむこうに半分沈んだ太陽がその顔を出してしまうことを恐れているかのように震えていた。
「冬樹君……?」
冬樹はキャップを脱いで、その勢いのままプールに背を向けた。キャップのざらつきが煩わしい。クッションの無いゴーグルの左右のレンズが、ぶつかり合ってカチャカチャと耳障りな音を鳴らしている。アスファルトにできた足の形をしたシミはひどく醜かった。背後から迫ってくる規則正しいリズムが何よりも冬樹に恐怖を与えた。
「……俺じゃダメなのかよ」
真春の悲痛な問いに、冬樹は聞こえないふりをした。そうすることしか出来なかった。
アスファルトに長く冬樹の影が伸びている。それは、プールの出入り口付近に設置されたシャワーの元までついてきた。錆び付いたバルブに手を掛けた。固いバルブを無理矢理に回すと、騒々しくもまた勢い強く放出された水が冬樹の体の表面をつたって流れ落ちていく。その冷たさに冬樹は体を強張らせた。鳥肌が立っている。夏のジンワリとした暑さは、こうしている間だけ忘れることが出来た。だが、心中にはなおも垂れ込めるものがある。シャワーヘッドから吹き出す水は、大した量ではないはずなのに、何故か重かった。排水溝に流れていく様を見届けながら、地面に横倒しにされている不鮮明になった己の影は、まるで消えたがっているかの様にたゆたっていた。あの陽光が差し続ける限り、それは叶わないのだろう。
「冬樹君」
背後に千秋の気配を感じ取り、冬樹はその柔らかな声音に不意に安心を覚えた。バルブを閉めると、キュッと音がして頭上のシャワーが止まった。一度引いた波が押し返してくるかのように、ゆっくりと蝉の声と部員の声、他の運動部員達の声が耳に届いてくる。熱気が躙り寄ってくる。塩素のツンとしたにおいが微かに漂っていた。
「今日はらしくないよ。どうしたの?」
千秋が右横に並んだ。その手には冬樹のタオルが握られている。彼女は眉を寄せながら、手に持ったタオルを冬樹に差し出した。
「らしくない……か」
有難う、と受け取りながらも、そうかもなと冬樹は惨めな感情を口の中で転がした。水着に違和感がある。ハーフスパッツタイプの水着の裾の部分が捲れていた。
「そうだよ。冬樹君、いつも自己管理ちゃんとしてるし、真春が喧嘩腰で迫っても背中を向けることはなかったよ。それに……」
千秋が言い淀む。彼女を尻目に窺うと、何か言いにくいことがあるとでもいうかの様に、千秋は目線を泳がせていた。両手の中で申し訳なさそうに息を潜めているキャップが目についた。
「遅かった、か?」
千秋は頷かず、かといって否定もしなかった。相変わらず申し訳なさそうに縮こまっている。小柄な体がさらに小さく見えた。部員達の笑い声が聞こえる。そうそう、と彼等は話しに花を咲かせている。
「事実だよ。気にするな」
冬樹は努めて淡々と言ってみせた。視界の奥、寒緋桜の葉々はザワザワと激しく揺れている。
「気にするよ……とても」
乾き始めた千秋の髪の毛が横に膨らんでいる。朱に染まった頬は、夕日のせいではないのだろう。彼女は冬樹の目を見ては、すぐ逸らし、また目を合わせ、そして再び逸らすを繰り返した。
口を小さく開けもした。喉を震わせようと息を吸い、だが千秋は感情を表現することもなく、意味を与えられなかった言の葉達は彼女の肺に戻っていった。
憂いを帯びた眉根は、やがて決意に変わり、千秋は手の中のキャップを小さな両手で覆い隠した。
「待ってて!」
そう言い残し、千秋は足早に更衣室へと向かって行った。靡く毛先は、まるでヒラヒラと宙を舞う紅葉した葉のようであった。冬樹はその様に釘付けになった。千秋の後ろ髪を目で追っている間、冬樹は胸中の無力感を忘れることが出来た。ポトリと手から何かが滑り落ちた。それはキャップだった。
「加藤」
キャップを拾おうと腰を折る冬樹の視界に影が差す。ハッキリとした影の形はややガッシリとしていた。逆三角形は、しかし冬樹や真春のそれとは違い細身のシルエットである。短く切り揃えられた髪は水分を含み、ペタリと頭や顔にはり付いて、丸い頭部の側面からは耳が生えていた。その先端は尖っていた。
アスファルトから熱気がこみ上げる。冬樹はそれを吸い込んで、一瞬呼吸困難に陥った。気管に何かが詰まったかのようだ。
「夏美……」
キャップを拾い、そのままの姿勢で冬樹は正面を捉えた。キュッ、とバルブを開放する音は、冬樹に後ろめたさを与えた。手の中のキャップはすっかり乾ききっていた。
井口夏美は一つ右のシャワーを浴びながら冬樹を見つめている。塩素に色素を抜かれた髪が、リンゴの様に赤く染められた頬の輪郭を辿っていた。シャワーヘッドから流れ落ちる水が彼女の頭から顎先をつたい、窪んだ鎖骨から溢れ出た液体は微かに上下する乳房の形をなぞった。引き締まった腰のラインとヒップを強調するように競泳用の水着が彼女の体にフィットしていた。夏美の左手には、乱暴に外したのか絡みついたキャップとゴーグルが握られていた。バルブに掛けられた右手は、その柔らかな指の腹をバルブに食い込ませていた。視界の隅から点々と続く足跡は、その間隔を広く開けていた。足跡の縁は四方八方に大きく伸びていた。
「夏美先輩、忘れてる!」
真春がその手にペットボトルとタオルを持って駆け寄ってきた。彼は冬樹に一瞥をくれながらも、その足を止めることはなかった。真春は、冬樹と夏美の間に半身を割り込ませた。西の空へ一直線に飛んでいくカラスが視界の奥にいた。
「これ!」
真春の表情は和やかなもので、先のそれとは比べものにならない。眉尻を下げて、張った肩も緩やかなものであった。
夏美はそんな真春をチラリと尻目に見、ゆっくりと視線をこちらに戻す。数秒、三人の間に沈黙が落ちる。蝉の鳴き声とシャワーの音がやけに耳についた。全方位から差し迫ってくるようで、冬樹は息が詰まるような思いだった。それらは延々と続くように思えた。
真っ直ぐな瞳は妨げるものも何もなく、ただ一心に冬樹を見つめ、彼の凪いでいた心中を強烈にかきたてた。理由を問うているように感じた。微かに苛立たしげな感情が眼球の中に居座っていた。一片の疑問が瞳孔の奥に潜んでいる。
澄んだ闇色の瞳は冬樹を映している。彼女のゴーグルは手の中にある。
夏美の背後、沈みかけていたはずの夕日が再び顔を出したかのように思えた。地面からこみ上がりたゆたう膜のむこう、揺らぐ寒緋桜はその熱量に身を焦がしているかのようだ。苦しそうに幹や枝葉が歪んでいる。
「待ってるから」
夏美は乱暴にバルブを閉めて、真春の手からペットボトルとタオルを取った。バルブを閉める音は余韻を残した。
タオルで体を拭きながら歩き去って行く後ろ姿を真春が追う。右隣に並んで何やら会話をしていた。その緩やかな表情と大仰な所作は、けれど夏美の足を止めるに至らなかった。足早に音を立てて去っていく夏美に、真春はまるで縋りつくかのようにその横に並び続けた。
真春が一瞬こちらに視線をむけた。つり上がった目尻とやはり痛々しいほどに握りしめられた右の手が、どうしてか無性に目に焼き付いた。
夏美と真春と擦れ違うようにして千秋が戻ってきた。冬樹の元に来る最中、千秋は剣呑な雰囲気を纏った夏美とそして放心して動けない冬樹とを交互に見やっていた。
「夏美ちゃん、怒ってたよ」
肩にタオルを掛けて、心地の良い風を伴い、冬樹の正面に立った千秋は、その手にキャップとゴーグルを持ってはいなかった。冬樹は、額の冷や汗を手の甲で拭いつつ、夏美を目で追う千秋の横顔を見定めた。そのプックリとした紫色の唇が弧になっていた。
生暖かい風が桜の枝葉を揺らす。沈んでいく太陽が残した熱を奪い去っていくようだ。
「わかってる。……わかってる」
冬樹はタオルで頭を乱暴に拭いた。ガシガシと地肌を削るように。濡れてふやけたスイムタオルが髪や地肌、顔に張り付いて思ったようには拭けない。冬樹はその煩わしさに難儀した。溜息を吐きそうになり、タオルで口元を覆った。塩素のにおいだ。
「考えすぎるのは良くない癖だよ」
腰を折り、俯いた冬樹の顔を覗き込むようにして千秋がこちらを見上げている。柔和な表情とその輪郭を撫でるように黒髪がさらさらと流れた。
「冬樹君、嫌なことがあっても何も言わないけど、でも誰にも相談しないもの。皆はクールで格好いいとか大人っぽいとかいうけど、色々考えて一杯悩んでるの、私知ってるよ」
弓の形をした千秋の目を見ていると、どうしてか冬樹は胸中に居座っている自身を苛みたがるこの感情を忘れることが出来た。宿題やってないわ、やらなきゃ後悔するぞ。部員達の声は、ザワザワと木々を揺らす一陣の風に取り除かれ、蝉の声もその一瞬だけは鳴き止んだかのようであった。
「根暗なだけだよ」
「そんなところも合わせて冬樹君だよ」
「甘やかさないでくれ」
「うん、だから」
千秋は、冬樹の右手を取った。スイムタオルを握る手は、彼女の小さく柔らかな手に包まれた。指先までしっかりとした体温がそこにはあり、若干ではあるが強張った筋肉の固さを冬樹は感じた。その手をあまりにも温かく感じてしまい、冬樹はどうしてか緊張を得た。風が寒緋桜を鳴らした。包み込むように吹いて、表層の枝葉の隙間に入り込んでいる。
柔らかな生地と手のひらの間に何かヒヤリとした四角い物体が滑り込んできた。
「これをあげる」
そういって一呼吸、確かな手のひらの感覚と丸みを帯びた柔肌が、冬樹のすっかり冷え切った右の手を優しく、しかし力強く包んだ。
冬樹は僅かに息を吐いた。千秋の潤んだ双眸に吸い込まれそうだった。左手が震えている。冬樹は今にも千秋を抱きしめてしまいそうだった。タオルもキャップもゴーグルも、全てを投げ出したかった。彼女は何もかもを忘れさせてくれる。
空へ舞い上がった涼風が葉を巻き込んで高く上っていく。あのまま日の光から遠ざかり、遠くへ行ってしまうのだろう。
ややあって、名残惜しそうに千秋が冬樹の手を離す。皮膚と皮膚の間、徐々に広がっていくその間隔が無性にもどかしい。指先が千秋の手を追いかけた。手中に残った物体が滑り落ちそうになったため、冬樹はそれ以上指を伸ばせない。
一歩二歩と離れた千秋の赤く色付いた表情は、それこそ紅葉の様にあかく、黒色の艶やかな髪の間にちらつく様は正しく宙を舞う木の葉だった。人の心を鷲掴みにし、離さない魅力がそこにはあった。
冬樹は視界の端で夕日にあてられてあかに染まった葉が一枚落ちるのを認めた。それが地に落ちるまでの間、冬樹は全てを忘れていた。
千秋は靡く毛先を耳にかけた。丸い耳の先端が赤くなっている。それは彼女の癖で、千秋は照れているとき往々にしてそのようなことをした。高揚した頬や耳を逆に晒すことになっている、と冬樹はその美しさを見たいが為に忠告することはなかった。
「何かあったら私を頼ってね!」
千秋は告げた。小柄なシルエットは逆光の中にある。冬樹は、千秋が今どのような表情をしているのか見ることができなかった。
「お疲れ様!」
後ろ手に投げかけられた言葉に、冬樹はお疲れ、と答えた。早足で去って行く千秋の背に届いたかどうかはわからなかった。彼女の足取りは非常に軽やかだった。
残された冬樹は暫くその背中を目で追っていた。千秋が更衣室に消えていって、入れ代わるように制服に着替え終わった部員達が外に出てきた。弛緩した騒々しさは夏の暑さや息遣いを思い出させる。夕日が視界の端にあった。
冬樹はそこに至って初めて手中の物体を確かめた。包装されたチョコレートがそこにはある。保冷剤と共に持ってきていたのだろう。微かにその表面が冷たい。冬樹の手がまだ湿っていたせいか、包装紙の表面に手中の水分が付着していた。
冬樹はスイムタオルを肩に掛け、空いた手を使い包装紙を広げた。中のチョコレートを指先で摘まんで口に運ぶ。若干溶けていたのか、冬樹は手についたチョコを舐め取った。甘さの中にツンとした刺激があるような気がした。鼻に上ってきたにおいは塩素のそれであった。
チャプン、とプールの縁に水が寄せてはぶつかる音が聞こえた。蝉の鳴き声は夏のそれだ。
冬樹はプールサイドに残っているのが自分だけであるということに気付いた。部長である為、プールの鍵を閉めて職員室に持って行くのは専ら冬樹の役目であり、故に遅くまで残ることは普段通りと言えばそうなってしまう。だが、このコンクリートに縫い付けられたかのように動かない足と、その表面に焼き付いたかのように伸びている自身の影を見ていると、冬樹は自分が自分の役目や立場の為にここに残ってるわけではないように思えた。
寒緋桜はひっそりと正門脇に佇んでいる。部活を終えた皆々がその下を通って帰宅していく。あの夕日でさえ、やがては地平線のむこうに沈んでしまうのだろう。桜の木はただただジッとして動かない。
冬樹はやはり誘われるように視線を動かしてプールを見やった。視界の奥に伸びる短水路。それを区切るロープ。静かに波打つ水面。
その波打つ様を眺めていると、不意に寂寥感が襲ってきた。悪寒がして思わず二の腕を抱く。
「加藤! 早くしないと置いてっちゃうよ!」
背後から、あの大空に突き抜けて行くような大声が聞こえた。振り返ると夏美がいる。夏美は白を基調としたセーラー服を身につけ、その裾や袖からこんがりと日に焼けた健康的な肌を晒している。腰に手をあてて頬を膨らましている様は、こちらを急かしているようだ。
夏美は赤縁のメガネを掛けていた。彼女は目が悪かった。透明なレンズが赤色の光を反射している。正面に立つ冬樹は、その中にちらつく人影に気付いた。
「すまない! 急ぐ!」
同じく大声で返し、冬樹は更衣室へと足を向ける。声変わりを終えた声は、自分でも恐ろしいと思えてしまうほど低い物だった。コンクリートや水面に吸収され、さらに蝉の声に押し出されて、とてもあの大空には届きそうにない。足を踏み出した冬樹は、その時になってキャップとゴーグルを強く握りしめていることに初めて気が付いた。一瞬でも気を緩めるとそれらは手から滑落してしまいそうだった。
チョコの包装紙を手で覆った。光から隠すように。空は藍色に染められつつある。チラリと振り返ると、茜色の世界は徐々に終わりを迎えていた。寒緋桜はその巨大なシルエットを夕闇の中に溶け込ませている。短水路の水面だけが、おおらかに揺れ続けていた。
考えるなよ。お前も俺もそうしてきたろうし。
その一言が私を原点に立ち帰らせてくれた。
一部は修正して二部とし、事の起こりである一部を新たに作成する予定。それに伴い、現一部の名前を二部(旧一部)に変更。なお完成した新第一部はともかくとして、四部以降が手元で完成しても、なろうにて更新するかは現在未定