第二部(旧一部)
「本気になれてる?」
選手控え室から列になって長水路に向かうとき、既に決勝を終えた夏美がすれ違いざまにそう問いかけてきた。冬樹はキャップのしわを伸ばすことに集中していて、不意の問いに答えることはできなかった。
夏の強い日射しがプールの水面に反射している。冬樹はチラチラと乱反射するその眩しさに空を仰いだ。入道雲が青空をバックに悠々と背伸びをしている。コーチの声と部員の声、水を掻く音が遥か遠くあの空まで突き抜けている。
冬樹は俯いて上からタオルをかけた。日陰で休憩をとりながら、不意に首筋を撫でる風に鳥肌がたった。ひび割れたアスファルトは、居心地悪そうに隅で息を潜めている。
水分不足だ。
冷え切ったペットボトルをクーラーボックスから取り出し、冬樹はそれを一気にあおる。スポーツドリンクは嫌いではない。特に柑橘系の味付けがされた物は。
喉を通り腑に冷たい物が落ちていく感覚に満足を覚えつつも、胸の内にこみ上がる虚しさが、先程から続く頭痛を強めた。
この位まだ大丈夫、そう思っていたのは、果たして誰を納得させるためだったのだろう。
自身の体調のコントロールは出来ているつもりである。面倒見の良い性格だと言われこの水泳部の部長に任命されてから、より一層自身の体調管理には気を使ってきた。だから10分休憩でプールサイドに上がったときバランスを崩してその場に倒れたときは、皆に驚かれた。
正面、視界の中には今なお練習を続けている部員達の姿がある。2時間前に練習を始めたというのにそれでも皆努力しているのは、週末に大会が控えているからだろうか。
そうだろうよ。独り言ちて、冬樹は今朝からの自身の行動を思い出す。
早朝に起きてからすぐ家を出て走った。部員の誰よりも早く学校に着き朝練を始めた。夏休みだと言うことを良いことに、中3の受験シーズンさなかでありながら、それでも一心に水泳に身を入れている。コーチからはそう感心された。
それは違う。
冬樹はコーチに愛想笑いを返しつつも、心中で自分を皮肉った。走っていたときも、泳いでいたときも、彼の注意は散漫であった。集中しろと力んだ腕が水を勢いよく掻くが、指先に、あまつさえ手のひらにあるべき液体を押し出す抵抗がどうしても得られず、冬樹は苛立ちを覚えつつも一本、また一本と二十五メートルをただただ消化した。ぜぇぜぇと息をきらしながら見やる短水路は、いつもと何一つ変わらない。その事実が余計に冬樹の神経を逆撫でた。
消化していたんだよな。
冬樹は認める。こんなものは無意味だと。
今週末には大会が控えている。練習はそれを意識したものであった。
日向、はねた水滴がプールサイドに落ちる。黒い染みは強い日射しにあぶられてすぐに蒸発した。アスファルトからは熱気が上がっている。
冬樹の尻の下にできた水のにじんだ跡は、何時までたっても消えることはない。
その時、冬樹の耳に突き抜けるようなホイッスルの音が届いた。甲高い音につられて頭をもたげると、部員達が皆飛び込み台の前に列をなしている光景がそこにはあった。冬樹から見て手前側にある八つの飛び込み台にそれぞれ一人ずつ上り、コーチの号令に構えを取った彼等は、一瞬の静寂の後に駆け抜けた音を伴って、波止めのロープに区切られた短くも長い短水路に、勢いよく飛び込んでいく。
今、一人の少女が徐々に水面に浮かび上がってきている。たゆたう膜のむこうで細長い黒と肌色のシルエットが、ピタリと合わせた両足を上下に振っていた。やがて彼女はみなもに浮かび上がると同時に、右の手を足先に向けて振りかぶった。その動きが左右交互に続く。水を打つ両足は淀みなく、全ての動作は一定のテンポで、ただ右の腕が肩を起点に回り始める時折、彼女は顔を水中から横向きに出し、更なる勢いを全身に得てまた左右交互に指先を滑り込ませていく。
彼女の泳ぎは文字通り群を抜く。横一列に多少の反応の差を交えながらも飛び込み台を蹴り視界奥側の壁を目指すあの一群の中、彼女は既に体半分程集団から抜けていた。あのほんの少しの距離がどれだけ遠いモノなのか冬樹は知っている。それはロープで区切られたレーンを他者と競いながら泳いだ者なら、誰でもわかることだろう。彼女に追い付こうと必死に食らいつく部員がいる。それは中3の、男子部員だった。
自由形。
冬樹達選手は、あの泳法をフリーと呼ぶ。
冬樹の得意とするフリーだった。
彼女、夏美は更なる加速をかけた。一回一回指先が入水する際のフォーム。指や腕だけではない。その奥にある肩や上半身の全てがダイナミックに、それでいて流れるような動きで続いていく。右の指先の入水は、対角にあたる左肩を高く上げた。持ち上げられた左肩の後を追うように左腕が水飛沫を立てて水面から顔を出す。躍動感のある泳ぎは、夏美に莫大な推進力を与えた。二番目を泳ぐ男子部員との差が段々と広がっていく。遂には夏美の足と彼の腕が重なる程度となり、そこで先を行く彼女が短水路の端を叩いた。
夏美は泳いでいたときの勢いそのままにクルリと振り返り、ゴーグルを外した。きっと彼女の目にはタイムを表示する巨大な電光掲示板が一瞬だけ映ったはずだ。己のタイムを見るためではない。これで終わりだと筋肉から緊張を抜かないためだ。まだ、まだ泳げ、進めと前を望む動作だ。
電光掲示板が見えているのだろう。夏美の大きな瞳はキラキラと輝いていた。肩で息をしながら、夏美は虚空を眺めている。
不意に目が合った。未だ醒めぬ夢の中にいるのか、高揚した表情の夏美を正面に捉え、冬樹はクッと息を呑んだ。透き通った真っ黒な瞳がこちらを見つめていた。喉をなにやら冷たい物が落ちていく。気が付けば体はすっかり冷えてしまっていた。手に握っていたペットボトルが表面に大量の汗をかいていた。
コーチが夏美にタイムを告げる。その時になってようやくプールの水面に出来た波が夏美の元に追い付いた。彼女はそれに一切の興味を示すこともなく、体を揺られながらもしっかりと冬樹を見つめ続けていた。
コーチがゴールした他の部員達のタイムを読み上げる。次々とゴーグルを外していく彼等を視界の端で認めながら、夏美と視線を絡ませていると、脳裏で声が再生された。
『本気になれてる?』
冬樹は夏美から目を逸らした。彼女のまっすぐな双眸を見続けることがどうしても出来なかった。
目を逸らすと、プールサイドの隅でひっくり返ってもがいている蝉を見つけた。必死になって元に戻ろうと腕や羽をばたつかせている。
酷く惨めだった。