砂色のブルー(卅と一夜の短篇第10回)
一 砂漠のサカナ
砂漠にはサカナが棲んでいる。
かつて海から陸にあがり、ふたたび海に還ったものがクジラであるが、またさらに陸にあがったものがいる。それが砂漠のサカナである。
表面の砂を払い皮を剥いでしまえば、そのまま生でかぶりついてもじゅうぶんに旨い。また、それから採れる油は闇夜を照らす灯りとなる。動植物の少ない砂漠にあっては、サカナは人びとにとっての貴重な食料であり燃料なのだ。
ウテンディは、そんなサカナを獲って暮らす漁師である。漁師となり八年、夫となり五年、今ではひとりの娘とふたりの息子の父でもある。短く刈りあげたちぢれ髪に筋骨隆りゅうの浅黒い肌、眉骨の盛りあがった砂漠の民特有の顔立ちを持つ青年である。
砂漠の民は伝統的にサカナを獲って暮らしてきた。しかし最近はめっきりサカナが減ってしまった。蒼白の人びとがみだりにサカナを獲るからだ。
どこからやってきたかは分からぬが、蒼白の人びとは砂漠に鉄道を敷き、ひっきりなしにサカナを北へと運んでゆく。近年では砂漠の民が獲ったサカナをも奪おうとするので、どうにもいざこざが絶えない。あまりにサカナが獲れぬので、砂漠の民が列車を襲うこともしばしばである。
この日も列車を襲う計画が持ちあがっており、村の広場には人びとが集まっていた。
「ご無事を、お祈り致しております」
不安げな、妻のか細い声。ウテンディは妻の小さな体を抱きしめた。
「日没までには戻る」
ウテンディは妻の耳もとで、おのれに言い聞かすように呟いた。駆け寄ってくる三人の幼子たちとも、ウテンディは膝をついてひとりずつ抱擁をかわし、神への祈りの言葉を三たび唱えた。
物見の塔に旗が掲げられた。出立の時である。
女と子どもに見送られ、男たちは船を押して村をでた。
船は一艘につき五人乗りである。前後に張った帆をふたりずつ操る。残りのひとりは船頭だ。ウテンディは、ムブワとともに前帆手を担っている。
ムブワはひと月まえに妻を迎えたばかりの少年である。
「こんどは獲れますかね?」
若きムブワが船を押しながら、隣りで同じように船を押すウテンディに訊ねる。
「おまえ次第だ」
「どういうことですか?」
「無駄口を叩かなければ失敗しない」
ムブワは口をつぐみ、それからは黙して仕事に専念した。
熱風が吹きすさぶ。
噴きでた汗はすぐに乾き、残された塩分が肌に白くこびりつく。船を押す男たちは皆、体じゅうが真っ白である。
膝まで砂に埋もれるようになったところで、男たちは船に乗りこみ帆を張った。帆は風を受けてぱんと膨らみ、船はぐんと速度をあげた。
船の数はぜんぶで六。酋長の船を先頭に、船団は砂の上を進んでゆく。目指すはいつもの漁場、空色の花束鉄道だ。
二 空色の花束鉄道
漁場に着いた。ウテンディたちのすぐ先には、空色の花束鉄道が砂漠を分断している。
船団は岩陰に隠れ、ウテンディたちの乗った一艘のみが近づいてゆく。船は速度を緩めつつ、枕木を埋めるように敷き詰められた砕石の軌道にぴたりと横づけした。
船頭だけを見張りとして残し、ほかの四人は赤錆だらけの砕石の上に降りた。軌道の上に幌を張り影をつくり、軌条に大量の水をかける。水は貴重だが、こうでもしなければ灼熱に晒された軌条には指一本触れることもできぬのだ。
軌条に触れた水が瞬時に蒸発する音は潮騒に似ている。
じゅうぶんに冷えたところで、ウテンディは軌条に耳をあてた。こうして、列車が放つかすかな振動を聴き取るのだ。
「どうですか?」
「静かに」
若きムブワを、後帆手のひとりであるメトハリが遮った。
やがて、心臓の鼓動のように規則正しい振動がウテンディの耳に届いた。
南からくるか、北からか。
蒼白の人びとはサカナを北へ運ぶ。南行きの列車であれば積荷は空っぽだ。逆に、北行きであれば大当たり。
空か、満載か。重さが違う。だから、軌条から伝わる振動が、わずかに違う。ウテンディには、その違いを聴き分ける耳がある。
重い振動。明らかに。
「くるぞ、獲物だ!」
ウテンディの声を聴いたメトハリが、船団にむけて指笛で合図を送った。砂漠の民の、漁の始まりである。
三 銀の水鳥号
北へ向け。鉄道と並走し。船団は風を受け、全速で航行する。
ウテンディたちも船団に随行した。
「きた!」
船団のはるか後ろ、蜃気楼のむこうに黒煙が見えた。空色の花束鉄道をゆく機関車『銀の水鳥号』である。
銀の水鳥号は貨物車をいくつも連ね、船団にみるみる迫ってくる。むこうの動力は蒸気圧。こちらは風。速力には歴然の差がある。
空に響きわたる警笛の音がウテンディの耳に届いた。
むこうも船団に気づいたようである。警笛は砂漠の民に対し「即時退避せよ」の信号をしきりに繰り返している。しかし、砂漠の民にはそんなことはお構いなしである。
やがて警笛が無駄だとみるや、銀の水鳥号のほうから仕掛けてきた。船団に追いつくや銃撃を始めたのである。
が、砂漠の民は怯まない。
蒼白の人びとが使う銃は粗悪なものだ。発砲音だけならばすこぶる威勢が良いが、弾がどこに飛ぶかは分からない。三分の一の確率で前に飛び、三分の一の確率で後ろに飛ぶ。残りの三分の一は弾がでないか暴発する。
神に見放されてもいない限り当たることはない。砂漠の民は、それをすべて知っている。
四 蒼白の人びと
狙うは、機関車と貨物車とを繋ぐ連結器。これを切り離してしまえば、貨物車は動力を失いやがて停まる。蒼白の人びとは貨物車を置いて逃げるしかない。そうなれば積荷のサカナはウテンディたちのもの。砂漠の民の胃袋は満たされる。
「あとを任せた」
ウテンディはムブワに操帆縄を渡した。ムブワが返事をするより先に、ウテンディは船のへりに足をかけ、跳んだ。
最低限の要員を残し、砂漠の民は次つぎと列車に跳び移ろうと試みる。しかし大部分は叶わず、砕石の上に転げ落ちてゆく。成功する者はほんのわずかしかいない。
跳び移った男たちは貨物車の屋根によじ登った。屋根づたいに銀の水鳥号を目指すのだ。しかし、猛速で走る列車の激振と砂漠の烈風、銀の水鳥号の煙突から吐きだされる黒煙に阻まれ、男たちは次つぎと脱落してゆく。
銀の水鳥号まであと一両となるころには、屋根に残るはウテンディとメトハリだけとなった。
黒煙を裂いて弾が飛んでくる。蒼白の人びとからの銃撃だ。当たることはほとんどないが、ウテンディたちは身を伏せた。神に見放されぬように。
蒼白の人びとがウテンディたちに近づいてくる。銃を構えて。一歩ずつ、一歩ずつ。蒼白の人びとは唇の端が吊りあがり、頰の肉が持ちあがっている。
嗤っているのだ。
なにを嗤っているのか。煤まみれで屋根にしがみつく砂漠の民をか。出来損ないの銃を構える自分たちをか。
ウテンディは理解した。いずれもだ。そのいずれもを嗤っているのだ。蒼白の人びとは遊んでいるのだ。楽しんでいるのだ。この娯楽ができるだけ長引くよう、一歩ずつ、一歩ずつ近づいてくるのだ。
大きな、音がした。
そのとき、蒼白の人びとの顔が青ざめた。
一瞬、屋根の上を影が覆った。影の主を追って、とっさに空を見あげるウテンディとメトハリ。ふたりが視界に捉えたものは、塊であった。
黒く巨大な、艶めかしく丸みを帯びた塊である。塊の後ろには、矢羽のようにふた股に分かれた平たい尾があった。
塊は空色の花束鉄道をまたぐように空に跳ねあがり、反対側の砂漠に潜りこんだ。と、同時に衝撃で砂が巻きあがった。
莫大な衝撃力である。巻きあがった砂は銀の水鳥号が吐く黒煙よりはるかに高い波となり押し寄せる。
蒼白の人びとは銃を棄て、慌てて銀の水鳥号に逃げ戻るや貨物車を切り離した。身軽になった銀の水鳥号は速度をあげて離れゆく。
動力を失った貨物車は慣性に任せて走るのみ。真横から砂の波に襲われた。
ウテンディとメトハリは屋根の上で、適当な突起物にしがみつき、神に祈りを捧げながらしのぐしかない。
やがて、貨物車は砂の波に飲みこまれた。
五 砂漠の民
銀の水鳥号は貨物車を残し、蜃気楼のむこうに逃げ去った。半分ほど砂に埋もれた貨物車だけが残された。
砂から這いずりでたウテンディとメトハリは、お互いの無事を確かめ合った。いまや、ふたりは砂まみれの煤まみれ、また汗の乾いた塩まみれである。
「見たか?」
「ああ。あれはクジラだった」
クジラが砂漠にいるとは摩訶不思議なことである。ふたりは首をすくめた。
「とにかく、サカナはおれたちのものだ」
メトハリは屋根から跳び降りると、貨物車の扉を開け放ち、獲ったサカナを確かめるべく乗りこんだ。
加勢しようとウテンディも降りてきたとき、砂漠の砂が湧き水のように盛りあがった。大きく、高く。砂は巻きあがった。
現れたのは黒い塊。頭の上から潮を噴いている。クジラである。
クジラは小さなちいさな青い眼をしている。
「クジラは海に還ったのではなかったのか?」
ウテンディがクジラに問いかけると。
「我われに還る場所などない」
メトハリが吹く指笛のように甲高い声がした。また同時に地鳴りのような声でもあった。
クジラは続けて言う。
「サカナは置いてゆけ」
「それはできぬ」
メトハリが貨物車から跳びだした。クジラにむけて両手を大きく拡げ、これでもかと歯茎を露出させて拒否する。
「置いてゆけ」
「できぬ」
「メトハリ。ここは従うべきだ」
ウテンディが説得する。
クジラの力は強大なものだ。砂漠の民が到底敵う相手ではない。ついにメトハリは折れた。
メトハリは未練がましい言葉を吐き棄てながら貨物車のなかを見やった。
そこにいるのは砂色の塊。暗い貨物車のなかで巨体を横たえている。サカナである。
サカナは小さなちいさな青い眼をしている。
「助けて。助けて。助けて」
サカナは弱よわしい声を漏らしている。
ウテンディはふた股に分かれたサカナの尾に縄を巻きつけ引っ張った。メトハリは顔をしかめて見ているだけだったが、やがて諦めそれに加勢した。
ずり。ずり。と、サカナは車外に引きずりだされた。
「助けて。助けて」
砕石の上にずり落ちたサカナは、こんどはふたりに押されて転がるようにして砂漠に戻った。
「助かった」
サカナは砂の下に潜っていった。
その様子を見届けると、クジラもまたゆっくりと潜ってゆく。高く突きあげたふた股の尾も次第に低くなり、やがてすべてが砂の下に消えていった。
「酋長に怒鳴り散らされるだろうか」
ウテンディが頭を抱える。
「少なくとも、おまえはそうなるな」
「だよな」
積荷がなかったということにすれば、ウテンディが列車の音を聴き誤ったことになる。男たちの必死の苦労が無駄に終わった責任はウテンディに背負わされる。
ウテンディは声にならぬ音を漏らすばかりである。
「いや、そうでもなさそうだ」
ふたたび貨物車内を漁っていたメトハリが、拳ほどの塊をウテンディに投げて寄越した。牛の缶詰である。缶詰は大量に積まれていた。
遠くに船が見えた。酋長が率いる砂漠の民の船団である。
酋長の姿を認めたメトハリが、船団にむけて指笛で合図を送った。砂漠の民の、漁の終わりである。
船の上から手を振っている若きムブワに、ウテンディは立ちあがり、同じように手を振って応えた。
漁は終わった。村へ帰ろう。妻と子どもたちが腹を空かせて待っているのだ。
帰ろう。我われの還るべき場所へ。
完