砂塵よりいでて
「行け。貴様の望みは叶った」
冷たい声がする。
僕は岩に背をもたせかけて座っているのに気がついた。
反射的に身なりを確認する。
暗緑色の軍服。おそらくライフル連隊の下士官用のものだ。記章はすべて剥ぎ取られている。
腰には重いウェブリー拳銃。装填済。
頭にはご丁寧に熊皮のバスビー。
ところでバスビーとはなんだろう。
この知識は僕のものじゃない。この腕も、足も、脳も、穴の底で空を見上げていたガキのものじゃない。
「僕は誰?」
「知らぬ。貴様は名乗らなかったし、混ぜ込んだやつのほうは全く礼儀を知らん」
思い出せない。
さっきまでのことさえ忘れてしまいそうになる。
「早く行け。貴様はまだ亡霊なのを忘れるな」
「え」
僕は生きている……んじゃないのか?
「貴様は歩き、叫び、戦うことすら出来るがそれは貴様らの魂を削ってやっておるのだ。この世の理に従え。ものを食い、金を稼げ。うえぶりいとやらの弾丸は一日二十四発、外に止まっておる車に飲ませる油、長銃の弾、勝手に補充されるが全て代価が要る」
「え」
頭が追いつかない。
「急げ。人心地をつけろ。文字通りの意味でな」
僕はふらふらと立ち上がり、扉を開けた。
「最後の忠告じゃ。南に真っ直ぐ向かえ。油がもったいないからと言って歩こうなどど考えるなよ。死ぬだけじゃぞ」
「あ……ありがとうございます」
返事はなかった。
僕は来た道を逆に歩き、外に出た。
父の死体を睨みつけようとしたが、感情が湧いてこないのであきらめた。
ただの肉の塊だ。
外には黒い"ファントム"が待っていた。
馬鹿馬鹿しいほど巨大な十二気筒エンジンを収めるボンネット。キャビンは相対的に小さく見える。
「下士官風情が乗るにゃ過ぎた車だ」
僕は輝く目玉のようなフロントランプを撫でながら言った。
今のは誰の言葉だ?
僕の戸惑いとは関係なく、体は自然にドアを開け、運転席に滑り込んでいる。
後部座席には人は乗せられない。
黒々とわだかまる機械と、二丁の銃。
リー・エンフィールド小銃と、ブレン軽機関銃。
後部座席の機械が歌い始める。
三十六枚組、自動音盤交換機付きのプレイヤーが大曲悪の支配者の荘重な第一楽章を演奏し始めた。
この車は本来なら運用するに当たって大量の整備手引書とそれに沿った厳密な整備を必要とするはずだ。
僕は自分のものでない脳で考えた。
しかし、そんなものはない。急がなければ。
魂を削ってでも早くこの死に満ちた村を離れたい。
僕は南に広がる赤茶けた砂漠に向けて"ファントム"を加速させた。
記憶の最後のかけらが消えてしまうまでに、僕は人間にならなくてはいけないのだ。