見えない
最初は死霊かと思った。
だが違う。
粗末なカップをカッファ売りから確かに受け取っている。
物理的な実体があるのだ。
実体を持つリビングデッドは総じて知性が低い。
コープス・ハンドの同類には見えない。
伝説上ではヴァンパイアという数百年前に絶滅した知性ある穢れた死者が知られるが、陽光に弱いという明確な弱点がある。
今は昼間だ。
だから違う。
反射的に目を霊視に切り替えてみる。
グラムタのような猥雑な都市でも、霊視すれば無数の意志なき霊体がさまよっているのが見える。
見慣れた光景だ。
しかし、まったく見慣れないものが視界の中央に頑として存在する。
霊体以外は存在しない地も天も不明瞭な灰色の世界で、威圧感をはらんだくろぐろとした鉄の柱のような影が見える。
おそろしく稠密で純粋な霊の塊、もしくは何か極めて霊的な物体に隙間なく霊が取り憑いた状態だろうか。
見たこともない奇怪なものだ。
思わずその黒い影の表面を注視してしまう。
何かが見えた。細かく泡立ち、振動する。
だめだ!
引き込まれそうになって無理やり目をそらした。
ヴォールトの目尻から一筋の鮮血が頬に垂れた。
「大丈夫か?!」
ライレが大声をあげようとするのを片手で抑える。
「静かに。まず予備知識無しに見てみろと言ったのは貴方ではないですか」
手巾で頬を拭いた。右目がかすかに痛む。
「攻撃か?」
ライレも声を潜めた。
「違います。彼の持つ引力に逆らったせいでしょう」
「なんだそりゃあ……」
食堂の軒先のテーブルに潜む彼等の視線の先、大通りの反対側ではピーター・グライムズがカッファを飲み終えたところだった。
「誰でも目を潰されたりするってことか。俺は大丈夫だったが」
「霊視を持たない人間にはなんてことはありませんよ。持っていても注目しなければいいだけです」
「霊視?あいつ、幽霊かなんかなのか?」
「さあ……」
ヴォールトは全く飲まないまま冷めた茶のカップを弾いた。
「何であれ、たしかに興味深い。ライレの勘は確かでしたよ」
「喜べねえわ」
ライレは苦笑した。
「彼自身の謎は置いても、あのような存在が使う魔術とはどんな精妙巧緻なものでしょうか。是非にも見てみたい」
「それが見て欲しくて呼んだんだ。ホールに行って話をつけようぜ。ただな……」
「何か?」
「精妙巧緻っていうんじゃない気がするんだ。実際に検分した者の話によるとな。だから、案外がっかりするかもしれんよ」
「ほう?それはそれで興味深いですがね。まあ、先回りして見せてもらうのが早いでしょうな」
「おうよ。姉ちゃん!勘定、置いとくぜ!」
ライレは幾ばくかの金を置き、食堂の裏手に続く通路を勝手に通った。
この食堂はホールの真裏にあたる職員の憩いの場であった。