序章 神に見放された村
幼いころは眠れないことがよくあった。嵐の夜は庭木の影が怪物に見えたし、町まで出た日は、目を閉じるとレンガ敷きの街並みが浮かんできた。
そんなときはいつも、姉がそばで頭をなでてくれた。生まれてすぐ母を亡くしたエメラにとって、年の離れた姉は母親代わりだった。髪を滑る優しい手つきに身を任せながら、決まって問いかけたものだ。
――シュゴシンって、だあれ?
――みんなを守ってくれる神さまのことよ。村の泉に棲む守護神さまは、大きな竜の姿をしているわ。
――姉さまは、シュゴシンさまに会ったことがあるの?
――ええ、何度もね。
姉はやわらかく微笑むと、赤みがかったエメラの髪を指でとかした。
――とっても、とーっても美しい方よ。光を浴びると、白い鱗が不思議な虹色に輝くの。大きな瞳は澄んだ緑色をしているわ。そうね、エメラの目よりちょっと薄いくらいかしら……。
思い出せるのはそこまでだ。きっと、話の途中で眠ってしまったのだろう。穏やかな姉の声には、自然とまぶたを重くさせる力があった。
そのときはまだ、守護神という概念を理解できる年齢ではなかったのだろう。それでも、姉がその誰かを大切に想っていることは充分伝わってきた。
その姉が神姫だと知ったのは、エメラが一人で出歩けるようになってからのことだ。神姫とは、守護神と人々とをつなぐ者。かつて神姫は、村長と同じくらいに名誉な身分だったらしい。エメラから見ても、濃紺の神官服を着た姉は、村の誰より格好よく思えた。姉は村人からも慕われていて、村が豊かなのは姉のおかげだとみんな口々に言った。
しかし、それも昔の話だ。
今から五年前、流行病で姉は亡くなった。同じころ、村の泉から竜神が姿を消した。守護神の姿を目にできる者はもともと限られていたが、姉が死んでからは目撃談もぱったり途絶えた。
そして、村では凶事ばかりが起こるようになった。まるで守護神の加護が消え去ったかのように、田畑が干上がったり、牛が子を産まなくなったりした。当時の村長は自らの資産で新しい神殿を建てたものの、村は貧しくなるいっぽうだった。
――守護神はこの村を見放したのだ。
苦しい生活の中、村人の多くはそう考えるようになった。なかには、エメラの姉のせいにする者もいた。神姫が死んで守護神の力を伝えられなくなったから、竜神は姿を消したのだと。
かつて豊かさを誇ったこの村は、いつからか〈神なし村〉と呼ばれるようになった。