44話
海は、先日の嵐が嘘のように穏やかであり、海面は緩やかに波打っていた。
帆にかかる風は、正しく順風満帆と言ったところであり、アーミテイジ商会お抱えの『鮫殴り粉砕傭兵団』の乗る『ソリンの黒髪号』も滑るように進んでいた。
この辺り一帯の海は強力なモンスターもおらず、人を惑わすサイレンやハーピーの巣からも遠い。
時たま思い出したように大時化がやって来て荒れるのだが、危険と言えばその程度。
天候を読むことが生き残る術だと知っている船乗りからすれば、これほど安全な海域も無い。
そんなことから、海戦を得意とする鮫殴り粉砕傭兵団の面々にも弛緩した雰囲気が漂っていた。
そもそも彼らの今回の仕事は戦闘ではない。ただの失せ物探しだ。しかも、見つかる可能性など無いに等しい。半分居眠りをしながら遠洋を望遠鏡で覗く見張り以外は、暇と言っても良いほどだった。
「しっかしよぉ、アーミテイジのジジィもお盛んだよなぁ」
甲板から釣糸を垂らしている男が、あくびと共に呟いた。
それ応じたのは、同じく隣で釣糸を垂らしながら、酒をあおっていた男である。
「あぁ、まさか奴隷補充の為に、商船を時化に突っ込ませるとはな、あれだろ、性奴隷の運搬だったんだろ?」
二人とも海の男にふさわしく、潮焼けした赤銅色の肌に荒縄のような筋肉が盛り上がっている。
のんびりとした会話や雰囲気とは裏腹に、いざ有事となれば風のように素早く動けることだろう。
「あー……、でもそう言えばよ、その奴隷、実は領主様への献上品だったって話もあったな」
「はぁ? 奴隷だろ? それが何で領主様への献上品になるんだよ」
話を振った方は周囲を見渡して誰もいないのを確認すると、声を潜めて話し出した。
「それがよ、何でも絶滅したはずの獣人がいたらしくてよ、ほら、獣人どもの子供って何の特徴が出るのか分からないっていうだろ?」
「らしいな、虎のラザークの所に最近生まれたガキが兎だったらしい」
二人は知り合いの冒険者を思い出す。
傭兵団に何度も誘うくらい、立派な体格と筋肉をもった虎獣人の戦士だ。
「ラザークの嫁さんは獅子だもんな。兎が生まれるとはねぇ」
「野生の動物と獣人は違うもんな。食っちまうことはまず無ぇから安心だ。食っちまう勢いで可愛がっているがよ」
「まぁ、それで、絶滅した筈の特徴を持った獣人が奴隷の間で生まれてきたんだと。それをアーミテイジが嗅ぎ付けて、領主様に伝えたって訳さ」
酒をぐびりと煽り、げふっと息を漏らす。
竿に引きは無し。
うんざりするほど平和であり、無駄話をするか酒を飲むか居眠りをするか位しか暇を潰せる方法がない。
「でも性奴隷なんだろ? もうお手付きなんじゃあねぇのか?」
「ははっ、まさかよ、領主様に贈る品に手を出したら縛り首じゃ済まねぇぜ。仮にアーミテイジのジジィが個人的に楽しむだけに急がせた品だとしてもだ、あの強欲ジジィがそんなこと許す訳がねぇ」
「……二度と海に出られなくなるのは確かだな」
「そこまでして獣人の奴隷を抱くか?」
「ねぇな、普通に娼館行くわ」
「だよな」
相変わらず魚は釣れず、話題も尽き始めた二人は、陽気に負けて次第にこっくりこっくりと船を漕ぎだした。
船はゆっくりと無人島へ向かっていく。
潮の流れから、船が遭難していれば大体そこへ辿り着く、一種の船の墓場がそこにあるのだ。
だが、傭兵達は違和感を覚えた。
散々見慣れた海の色が変わっていたのだ。
透き通るような群青から、揺らめく濃緑へ。まるで境界線を引かれているかのように、ぷっつりと。
「なんだこりゃ?」
「今までこんな風になってたか?」
釣りと無駄話に興じていた二人だけでなく、異常を察した団員達が次々に甲板に集まり、周囲を警戒していた。
いつのまにか霧まで漂い始め、傭兵達の緊張が嫌が応にも高まっていく。
「おい、船が止まったぞ!? どういうことだ!」
「風があるのに、帆が張っているのに、船が動きやしねぇ、まるで何かにしがみ付かれてるみてぇだ」
「おい、それってまさか……」
一人の傭兵が呟いた言葉に、全員の顔色が変わる。
海に生きるものならば誰もが聞いたことがある伝説。霧深く凍り付いた海に住み、どんな軍艦よりも大きく全てを飲み込む海の怪物の話を。
「ば、馬鹿言うんじゃねぇ、あれは氷海の話だろ、だいたい、作り話じゃねぇか!」
「そ、そうだよな、すまねぇ、有り得ないよな!」
動揺を隠せない傭兵達をさらに追い詰めるかのように、事態は急変する。
波を切り裂く音と共に、霧に包まれた海上を何かが泳いでいるのだ。
その何かは、人らしき影を乗せており、次第にソリンの黒髪号を取り囲んでいく。
「てめぇら、何者だ!」
傭兵団の中でも年の若い新入りが強がって叫んだ。
その声に応じるように、海上の人影は騎乗していた何かから跳び上がり、甲板に降り立った。
力強い動作であったにも関わらず、その動きはしなやかであり、着地は驚くほど静かであった。
「馬鹿な、海上から甲板まで、10フィートルはあるぞ……」
誰かが呻く。
ただの跳躍。それだけの行為が見せた規格外の力に、歴戦の傭兵団の戦意が半ば挫かれていた。
その数、およそ16人程。
全員人の形をしているが、明らかに人ではない。
頭や腕、足からはヒレが生え、全身を青く光る鱗が覆っている。
それぞれが棒の先端に巻き貝を取り付けたような長槍を装備し、黒い蟹の甲殻のようなもので武装していた。
骨格は明らかに人間であるのに、人外の特徴が有りすぎる。
魔物なのか、獣人の一種なのか、それさえも分からない。
しかし、相当の手練れであるということはすぐに分かった。
一人の傭兵が剣の柄に手をかけた瞬間に、槍で剣を叩き落とされたのだ。
「動くな、貴様らの船は既に我らの包囲下にある。答えろ、何が目的で我らの領域に侵入してきた?」
一際体格の立派な魚人間が、底冷えのするような目で傭兵達を睨んだ。
それだけで震え出す傭兵も居たほどだった。
レベルが違う。
そのことを本能で思い知らされる。
「俺たちは、難破した商船の積み荷を回収しに来た雇われモンだ……、最近この辺りで大時化があったろ? その時に沈んだみてぇなんだよ」
「む? それは、白い毛の少女か?」
「あ、あぁ、多分そうだ、アンタぁ知ってんのかい?」
「我々が拾った。だが諦めろ、我が主があれを御気に入りであられる。貴様らに渡すわけにはいかん」
もしも奪おうと言うなら……、という脅しが明確に含まれた視線。
巻き貝に似た槍の尖端が、一糸乱れず傭兵達に向けられる。
「おォいおい! 勘違いしないでくれ、差が分からねぇほど馬鹿じゃない、出来ることと出来ないことの区別は付くつもりだ。アンタらとはヤりあいたくねぇ」
「賢明な判断だな。帰って貴様らを雇った者に言うがいい。この海域は既に我が主の領域、無断で立ち入ることはまだ許さん」
「まだ? まだって、それは……」
「ここはダンジョンとなる。遠からず開かれる故、その時にまた来るがいい」
「…………分かった、そうするぜ」
魚人間のリーダーらしき男が合図を送ると、周囲の魚人間は次々に海へ飛び込んでいった。
最後にリーダーの男が海に飛び込むと、船がぐるりと反転させられ、元来た道へと押し返された。
そう、まるで水面下で船底を掴んで押したかのような振動だった。
傭兵達は声もなくお互いの顔を見合わせる。
「二度と来ねぇ」
誰かが吐き出した言葉が、全員の気持ちを表していた。