家族会議
本当に……おひさしぶりです……
「や。おかえり」
何かいた。
「ん? どうしたのさ? そんな面白い顔して」
僕はそんなに面白そうな顔をしていたのだろうか。いや、本当にそんなことはどうでもいいんだけどさ。僕の顔なんて毎朝毎朝顔を洗う時なんかにでも見てるし。それよりも。
「何で橙史さんがいるんですか?」
「ん?」
じゃねぇよ。どうしてこの人は何の前触れもなく人の家に勝手に上がり込んでお茶を啜ってるのだろうね。あと羊羹は戸棚の奥に隠していたはずなのに。食べてるし。普通に食べてるし。まるで自分のものだと言わん許りに食べてるし。つーか囓ってる。羊羹囓ってるよ、この人。
「んー……、と……食べる?」
「……いただきます」
ん。美味しい。当たり前だけど。
「ところで、冴ちゃんは?」
「さぁ」
「さぁ、ってことないでしょ? 冴ちゃんに君を連れて帰るように頼んだのにさ」
「じゃ、何でおとなしく家で待ってないんですか?」
「どうせ君なら冴ちゃんから逃げるかな、と。冴ちゃんのことだから君を連れてく前に先ず君の了承もらおうとすだろうからね。信用できないじゃん」
いや。自分の娘くらい信用しろよ。まぁ。ご察しの通りの結果になったけど。
「だからさ。来ちゃった」
てへっ。なんて舌を出して笑う橙史さん。正直、こんなことをやる二児の父なんて見たくなかった。あと無駄にその動作が似合ってるのが本当に嫌だ。一応、息子として。
そんな僕の冷たい視線を感じてか、橙史さんは咳払いを一つついて急に真面目そうな顔を作った。いや、遅いから。もうすでに遅いから。今さらそんな顔をしてももう父としての威厳なんて一切合切ぶっ壊れてますから。
「………………………………………………………………そんな冷蔵庫の奥底で一ヶ月くらい放置されたままになってた牛乳みたいに冷たい目で見るなぁぁぁああ!」
わけがわからないですから。あとそれは冷たいというよりも臭いものですから。
なんか勝手に泣き出した橙史さんを無視してお茶を淹れることにした。うん。お茶が美味しい。羊羹によく合うし。「無視してお茶なんか啜ってないで! お父さん寂しいから! あと俺にもお茶一杯っ!」
「はいはい。お義父さん……」
義父、九条 橙史はテーブルをバンバンと叩きながら湯飲みを差し出してきた。たまに、というか、よく思うんだけど。この人って本当に二児の父なんだろうか。威厳とか大黒柱っぽさなんて微塵もないし。父というよりも、良くて出来の悪い兄みたいな印象を受ける。悪くて弟。息子。
「――というか、まったくもって父親どころか、大人にも見えませんよね」
「えー」
「ほら。そんなところが」
「何だよー、いーじゃん。これくらいは。茶目っ気たっぷりの気さくなお父さんって感じでさ」
「おっさんの茶目っ気なんて披露されても、息子からしたら迷惑なだけですよ?」
「ひどっ!? 納得できるけどひどっ!」
「いやいや、納得しないで下さいよ。貴方のことなんですから」
自分のことを言われて勝手に納得されても困るじゃないか。あと無駄にこの人うるさいし。
「まあ。でも、お父さんらしくないのは本当かもね」
カラカラと笑いながらも、ぽつりと漏らした独り言のように橙史さんは目を細めてそう言った。
「一人暮らしにはもう慣れた?」
そして、いきなりそんなことを尋ねてきた。
「ええ」
「学校は?」
「まあ。それなりに」
「部活は? 将棋部だったけ?」
「違いますよ。部活は……何部でしたっけね」
「なにそれ?」
「何なんでしょうね?」
実はあまり詳しく僕も知らないのです。所属しているだけなので。
「まあ。いいけどね。お金に困ってたりなんかはしない?」
「今月は少し厳しいかもしれませんね」
「そう。だったら後で口座に振り込んどくね」
「あ、ありがとうございます」
まさか、こんなところでそんな話になるとは思わなくて、僕は少し言葉に詰まってしまった。
「鏡子さんには内緒だよ。バレたら僕も朋夜君も叩かれちゃう」
「……そう、ですね……」
たぶん、もし母さんに橙史さんからお金をもらったことがバレたりなんかしたら、本当に冗談じゃなくて大変なことになりかねない……。
「まあ。バレたらバレたで。その時は『与えたお金だけで生活できないなら帰って来なさい』とか言いながら、僕達が意識失うまでぶん殴るんでしょうね」
「鏡子さんは厳しいからね。それから何より君のことを心配してくれてるし」
あの、心配してくれてるわりには仕送りのお金についても厳しいし、週に何度かはたくさんのお叱りのお言葉がこれでもかと並べられたメールが来るのですが……。
「それは鏡子さんが早く君に帰ってきてほしいからだよ。ほら。あの人って何かそういうこと言うのって恥ずかしいことだって思ってる人だし。何よりそれが自分に似合わないって思い込んでるみたいだもん。不器用な鏡子さんなりのわがままとでも言うのかな?」
思ったままのことを、そのまま尋ねてみると、橙史さんはこう答えてくれた。何というか、不覚にもそうかもしれない、なんて思ってしまう。そんなよくわからない説得力を孕んだ言葉。
「まあ。何て言うのかな? ツンデレ? それともマイホームマザー?」
……あの、せっかく感心していたのに、台無しなのですが……。
「でも、まあ。帰ってきてほしい、ですか……。たしかに、僕のわがままで勝手に出てきてしまいましたしね……」
「うんうん。鏡子さんってばすっごく怒ってたもんね」
実際、あの時は本当に大変だった。なにせ、新居に荷物を運び込んだその日に母さんが殴り込みに来たのだから……。
「そしてこれからが本題なのです」
「はい?」
「家に帰ってくる気はない?」
ああ。訊きたかったのはそれか――。
「冴ちゃんや鏡子さんが君がいないと寂しいんだって。それに君が家にいないってだけで、鏡子さんってば口には出さないけど君に会いたくて会いたくてしょうがないって感じ。少し足をのばせば会えるとこにいるってのにさ」
「そう、ですか」
「僕も帰ってきてほしいし」
「…………」
さらりとそう言われて、僕は気の効いた答えも言えず、黙りこくることしかできなかった。
口を開いたら、思わず
「帰りたい」と言ってしまいそうで、言ってしまったら、橙史さんに引っ張られて連れて帰ってしまって、そのまま――
「――あ。無理だ」
やっぱり帰れない。
あそこに僕は住めない。
あそこに僕はいられない。
あそこは僕のいるべき場所じゃないから。
特に理由なんてものは――今となってはどうでもいいのだけれども……。
「そっか……」
ただ、僕の口からこぼれた言葉に、橙史さんは、微苦笑交じりに頷いて、
「ま。帰ってきたくなったらいつでも帰ってきなよ。あそこは君の家なんだしさ」
と、言った。
だから、僕は、
「そうします」と言って、微苦笑で応えた。
「じゃ、またね。息子さん」
「はいはい。お義父さん」
そうして、二人だけの家族会議は幕を閉じたのだった。
この日は。