二つの影
『春の宴』で白姫に切りかかり死んだ武官の死の真相を知りに白姫と紫雲をたずねる
紅姫一行。そこで事故とはいえ武官の死に白姫がかかわっていたことを確認した紅姫は、他者の命を軽んじる白姫の頬をその手でぶったのだった。
「紅姫様、いかなることがあろうとも暴力はよくありません」
桂がいれてくれたお茶を飲みながら、紅姫はうなずいた。
「そうじゃな…今後は気をつける」
しかし進言した月影の表情には怒りはなく、むしろ仕方のない子供を見守る父親のような顔をしながらお茶を口にはこんだ。
二人と同じように椅子に腰掛けていた深緑はぐったりと茶を飲む気力も残っていないようだった。そんな深緑の様子に気がついた紅姫が声をかける。
「深緑にもすまなかったな。いきなり驚かせることになってしまった」
深緑は、はっと我に返ると力なく紅姫に笑みを返した。
「深緑。この程度で肝を潰していては紅姫様のお付きの政務官は勤まらんぞ」
笑いかける月影に小さな声で「はい」と返事をした深緑の胸の内は、驚愕と、その正反対の憧れでいっぱいだった。
(このお二人はやはり特別だ…)
窓辺の円卓を囲んで座り、会話を交わす二人を、深緑は眩しい眼差しで見ていた。
(紅姫様のもとで政務官として働いていた時から、人道的ではあるがあまりにも慣習に囚われない姫様と、それを許し、補佐する月影殿を見てきたが、まさかこれほどのものとは…)
常識人である深緑にとっては、それだけ、いかなる理由があろうとも時期皇女に対して手を上げるなどとは考えられないことであった。
「さて、いかがいたします?」
月影はゆっくりと立ち上がり窓際の紅姫の背後に立った
「うむ」
もう一口お茶をすする紅姫。
「白姫の告白は皇玉帝に進言いたしますか?」
「………いや、真実が聞けたからそれで良い。ただ、亡くなった武官、法怜の家族がどうしているかは知りたい。こういう場合金品でかたを付けることが多いが、せめて見合った代償を受け取っているのか、どうか調べて欲しい」
「深緑、頼むぞ」
月影がそう言い、深緑は頷いた。
「では―――」
月影は窓の外を見た。
「白姫の告白を伏せることを条件にし、姫様が白姫様に手を上げたことを不問にしてもらいましょう。あちらにとっても悪い条件ではないので話は難しいことにはならないと思われます」
「うむ」
「ではそういうことで紫雲殿と話をつけて参ります」
「頼む」
立ち上がった月影と深緑、二人が頭を下げ赤宮を出ようとした時、紅姫が月影を呼び止めた。
深緑は下がったが、月影は再び紅姫のもとへと足を進めた。
「なにか?」
「確認したいことがある…今朝聞いた話の中で、私の婚儀…結局は玉蘭の死で幕を閉じたが、その話には『鉄ノ国』が関わっていると密偵の日陰がそう伝えてきたのじゃな?」
「はい」
「…そうか」
「姫様?」
紅姫の表情は変わらなかったが、深い考察の中にいることが月影には見てとれた。
「なにが起こっているのだと思う?」
紅姫の問いに月影はしばらくの間答えなかった。月影もまた思考の世界を彷徨っているようだった。
「―――良くないことが蠢いている…、そんな予感が致します」
「そうだ。日陰が自分で確かめに行くほどの事態、大きななにかを感じたからだと、わたしは思っている」
しんっ…と静まり返った赤宮。
「姫様は日陰殿に会いたいですか?」
唐突な月影の言葉に紅姫は虚を突かれた。
「なっなにを、とっ突然言い出すのだ!」
こんなに取り乱す紅姫を初めて目の当たりにして、月影は知ったのだった。日陰という人物は紅姫にとって大きな存在なのだと…
月影は笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「なにをそんなに動揺されているのですか?『鉄ノ国』の様子を聞いてみたいのではないかと思って聞いてみたのですが」
「うっ、うむ」
紅姫は動揺を隠そうとお茶を口に含んだが、むせかえり、さらに月影の笑いを誘ったのであった。月影はしみじみ宙を見ながら言った。
「実はわたしこそ、今、個人的に会ってみたい人物なのです」
「日陰にか?」
「はい」
「そうか…」
「先見の明を持っている人物でございます」
「そうだな」
(そして…)
(あなた様がこの世で一番、大事にしておられる人物だったのですね…)
月夜に照らし出された見晴台に立つ月影。
空には雲一つなく、星が瞬いている。
紫雲との話し合いでは、月影の予想通りすんなりとこちらの要求が通った。おそらく紫雲も似たようなことを思い描いていたのであろう。
不運な武官、法怜の家族のことは深緑が調べさせているし、『神移り』の儀の準備も進んでいる。気になることと言えば地崩れ起こした田上の地を調査した者の報告書にあった、見たことのない石が多く発見された―――という一文だった。それをのぞけば、とりあえずは大きな問題は今のところはなかった。しかし実に色々なことが起こった一日であり、さすがの月影も疲れを感じていた。そのためか今宵の月は見飽きることがなかった。
今まで月影は日陰のことを紅姫の寝所に入れる唯一の男性であり、その働きぶりから、日陰が紅姫に強く思いを寄せているのだと、勝手に思っていた。
しかし実際は…
「そこにおるのは月影殿ではないか」
自分を呼ぶ声に驚いた月影が振り返ると、そこには白蓮の姿があった。
互いに挨拶を交わし、月を眺める。
「月影殿、鳶丸は一命を取り留めたようですぞ」
「本当ですか!!」
「まだ起き上がれないようだが、意識は戻ったそうだ」
「…良かった」
月影の心からの喜びの声に白蓮はやさしく頷いた。
「白蓮殿、お聞きしたいのですが、白蓮殿は日陰殿とはご連絡を取られていらっしゃるのでしょうか?」
「日陰?いや、こちらから連絡は取れん所におるようじゃ…」
「……では紅姫様も同じなのでございましょうな」
「おそらく…そうであろうが…。一体日陰になに用ですかな?」
「さぞやお会いしたいことであろうと思いまして」
「姫様が、ですか?」
その白蓮の問いに月影は答えなかった。
「そうですな………会いたいでしょうなぁ…」
白蓮の答えに月影はため息をつくと、月に向かって話しかけた。
「世の中とは、ままならないものだ」
白蓮は自分に問いかけられていないと知りながらも、月影に答えた。
「そうですな…思い通りになることは、数少ないものです」
二人は顔を見合わせて微笑んだのであった。
日陰は雑踏の中、人をかき分け前に進んだ。
『鉄ノ国』(かなのくに)の市。ここには昼も夜もない。
人々の活気と熱気は湧き出る泉のように尽きることがない。獰猛にして魅力的な国。
「◎△□□」
時たま聞き取れない、この国独特の言語が頭上を飛び交う。
無意識に口元を覆っている布を引っ張り上げ、顔を隠す日陰。
(まったく生きた心地がしない所だぜ)
流民がふき溜まるっている橋の下。小屋とはとても言い難い、囲いと、戸と屋根が申しわけ程度にある場所に日陰はそっと入っていった。
辺りの気配を慎重にうかがい戸を閉める。
「ふぅー」
吹けば飛ぶような板の仕切に囲まれた場所でも、日陰にとっては一息つくことのできる場所であった。
疲れた体をぼろ布団にあずける。
見上げると屋根の隙間から月が見えた。
(紅姫様もこの月を見ているだろうか…)
日陰の胸を重くふさいでいる、ここ数日の王宮付きの政務官たちの動き。
(…田上の地がこんなに重要な意味を持ってくるとは)
明日にでも日向に連絡を取らねばと思いながらも日陰は夢の中へと落ちていったのだった…
がさっがさっ――草を踏みしめる音がする。橋の下、日陰の寝ている小屋に向かい近づいていく影。
影は慎重に一歩、また一歩と足を進めた…
ご覧いただきましてありがとうございました。久しぶりの日陰の登場でした。
次回は8月29日金曜日15時に『不穏な闇』(仮)を投稿予定です。
ではまた。




