牢獄
『春の宴』にて突然白姫に襲いかかった一人の武官。金剛が身を挺す
(ていす)ことで、命が奪われることはなかったが、その首謀者と
して樹桂が差し出した書面が証拠となり、紅姫の名が挙がったのであった。
「そうじゃった、あの日の翌日、玉蘭が紅姫様の目前で死んだ日のことだが、その時も普段どおりに政務をこなしておられた。あの時は肝の据わった御方だと感心したが、初めから、玉蘭と繋がっており、万が一、玉蘭の素性がばれた時の為に、暗殺者を仕込んでいたことを知っておいでならば合点がいく」
「しかしそれはおかしい。それならば、なぜ、第一政務官である月影が止めに入り、あのような騒ぎをおこしたのだろう?」
「月影は知らなかったのであろうな…紅姫様と『水ノ国』がつながっていたことを。だからほれ見ろ。月影に色々探られる前に、あっという間に暇を出されたであろうが」
皆、首をひねったが、月影が帰郷した本当の理由を知る者などあろうはずもなく、樹桂に対して反論の余地は無く、押し黙ったのであった。
樹桂が政務室で意気高々と話している声が廊下まで聞こえてきて、清流は政務室へ入るのをやめた。
(大事を大声でまくし立てるなんて、月影様だったら絶対になさらない)
清流は月影が去ってからの樹桂の様子に腹を立て、そして絶望すら感じていた。
紅姫が黄玉帝の判断により牢に入れられてから、実は紅姫は『水ノ国』とつながっており、偽物の王子、玉蘭とこの『木ノ国』を乗っ取るつもりであったが、玉蘭の身分が知れてしまい、失敗した為、今度は白姫の暗殺を企てたという噂がどこからか、なんの根拠もなく一人歩きし、宮中のみならず、下々の者までに広がっていた。
おり悪く月影不在の今、その噂を覆せる者もおらず、黄玉帝をはじめ、政務官の皆が、噂は噂とわかっていながら、事の真偽をどうやって突き止めるべきかと頭を悩ませていたのであった。
(月影様は一体なぜ、帰ってきて下さらないのか)
月影が信じていた紅姫を、同じように信じていた清流は、自分の力の無さをくやしく思うあまり、涙で景色がにじんできた。
紅姫は牢に入れられ、赤宮の政務官たちは樹桂に牛耳られている今、清流には月影が最後の頼みの綱であった。それがどんなに細く、今にも切れそうであっても、月影が帰ってきてくれることを信じることで、清流はなんとか自分を支えていたのであった。
一方、桂はなにをしていても心ここに在らずであった。
(なぜ姫様があのような目にあわなくてならないのか)
くやしくて、悲しくて、突然涙が出てきた。
今や、なるべく普段どおりに営み、心を落ち着けようとしていた紅姫の行動は、すっかり裏目に出てしまっていた。
(黄玉帝様も本当に酷い。御自分の娘なのに、なぜあのような酷い仕打ちができるのか)
帝宮では現在、樹桂が持ち出した書面の真偽を検討しているらしかったが…
(あの男、樹桂。あの者が姫様を陥れた(おとしいれた)のだ)
だが、それを証明するすべが桂にはわからなかった。
(…月影様しかおらぬ。この現状を打破することができるのは)
桂には定期的に、紅姫が閉じ込められている牢のある、建物に入ることが許されていた。
(なんとしても樹桂に、ばれぬよう、月影様と連絡を取らねば…)
紅姫の着替えを用意しながら、桂は固く誓ったのであった。
牢には紅姫が一人。
本来は、死刑執行を待つ罪人を入れておく牢であり、冬の殿からは遠く離れ、一ノ門を出た、さらにその遠くに牢はあった。
春とはいえ、まだ寒さに身は縮んだが、一人ぼんやりとしていられることは、紅姫にとっては、実は心安らかでもあった。
(このまま、ここで朽ちる(くちる)のもまたよしとするか…)
すっかり気落ちしていた紅姫には、もう、大きな流に逆らうだけの力は残っていなかった。あまりにも色々なことが一度に、そのか細い身に降りかかったのだ。
紅姫は自嘲しながら、格子の窓から細くこぼれる光を見上げた。
(…この心持ちを、世では開き直りというのやも知れぬな…)
それから、ゆっくりと差し入れてもらった、文机(ふみづくえ)の上で、筆を動かしたのであった。
がたごとと閂(かんぬき)が外される音がした。
「姫様…」
「桂か?」
聞き慣れた声色に、安堵と嬉しさが紅姫の心に広がった。
やはり自分にも人恋しい気持ちがあるのだと、こんな時にしみじみと紅姫は感じた。
「なにをしておいででいらっしゃいますか?」
桂は冷え切った板の間に膝を付き、ゆっくりと荷をほどきながら、紅姫に問いかけた。
「歌をな…詠んでおった」
「そうでございますか…」
「姫様?」
「なにか?」
「他に必要な物はございませんか?例えば…もっと下に敷く物や、羽織るもの、それとも…」
「桂」
紅姫は桂の言葉をさえぎった。
「大丈夫じゃ。このとおり体に変わりも無いし、ご飯もいただいておる。これ以上望むものはない」
そっと桂は紅姫から見えないように、袖で涙をぬぐった。
「桂…私はな、弱かったのじゃ。結局は月影に大きく支えられていたのだ。そのことにも気が付かず、暇を出し、陥れられた。すべてが自分の弱さからなのじゃ。しかしな、これで良かったと今は思っている」
「姫様!?」
「自分の弱さを、甘さを知ることができた。と、言ってもこれ以上今の私にできることはないのだがな…」
桂は牢越しに手を伸ばした。不思議そうに桂の手を取る紅姫。
「あきらめてはなりません」
桂は紅姫の手を強く握り、その力の強さに紅姫の顔には驚きが広がった。
「かならずやここから出て、また皇女座に座る日がまいります。その日まで、あきらめることは、それだけは、この桂が許しません」
「桂…そちは」
「姫様、今は確かに休みの時期かもしれませんが…そう、冬でございます。すべてが眠る冬。しかし、春がかならず巡ってまいります。明けない夜はないのでございます」
そこまで話すと、桂は自分が話し過ぎたことに気が付き、ぱっと板の間にひれ伏した。
「申し訳ございません。出過ぎたことを」
「…よいのじゃ、桂」
「はっ」
「そなたは強いな」
その言葉に紅姫を見上げる桂。
紅姫は今まで見たことのないほどの美しい笑顔で、桂を見ていた。
「めっそうもございません。もし、」
「もし?」
「私が強いのであれば、それは紅姫様、あなた様がいらっしゃるからでございます」
「わたし?」
「そうでございます。人は、誰かの為に、強く思う人の為に、初めて強くなれるのでございます」
桂は紅姫を見た。
瞳には強い力があった。
その力を桂に与えている者は…瞳に今、映っている紅姫であり、さらにその奥には、紅姫には知り得ない少女の姿があったのだったが、その少女の存在を紅姫が知るのは、これより後の事であった。
「あまりにも事がうまく運びすぎて、恐いくらいでございますな」
「ここにくるまでに、誰にも見つかっておらぬであろうな」
「はい、それはもちろんでございます」
夜も更けた馬小屋の裏、男と思われる影が二つ。
二人の間では、ひそひそと言葉が交わされていた。
「なら良い。おそらく紅姫様への疑惑は晴れることはなく、このまま幽閉の身になるであろうと予想しておる」
「ほうほう」
「そなたはこのまま手出しをするな。よいか、このまま、流のままにだぞ」
「それはもちろんわかっております。重々肝に銘じております。あの…」
「なんだ?」
「約束のほうは…」
「あぁ、もちろん覚えている。案ずるな。そなたには、ゆくゆくは副大臣の職を与えよう。あの方も、もちろん承知されておる」
「それならば」
闇の中でも、男の満足気な様子が伝わる。
影の一つが、ふわりと馬小屋の裏から出てくる。
月の光に照らされたその横顔は、白姫の第一政務官である紫雲であった。
しばらくたち、のそのそと、もう一つの影が出てくる。
それはいやらしい笑みを浮かべた、髭面の樹桂であった。
今回も読んでいただきまして、ありがとうございます。
13日の金曜日です。
子供の頃は、なんとなくおびえて過ごしたものでした(笑)
そんな自分は今もなるべく今日一日を占う、テレビや新聞の
占いは見ないようにしています。皆様はどうですか?
次回は6月20日金曜日15時に「月影」(仮)を投稿予定です。
ではまた。




