4/前脚の砂掛け
『気に入らない』
「来た早々何さ、柘榴ちゃん……」
霧澤有栖は、勝手に自宅に上がりこんだ猫――柘榴に眠そうに答えた。
「折角寝てたのに、別に今日は何も鼎さんは予定無かったっしょ」
狭いアパートの部屋で寝起きの目を擦りながら、有栖は起き上がった。左目だけを寝惚け眼に開き、彼は手探りで机の上に置いてあった眼帯を掴むと、右目に付けた。
有栖は〝言語活動〟で喋る猫である柘榴に特に驚きも見せずに訊くと、彼女は答えた。
『そのカナエから呼び出しだよ。お前が必要だってさ』
「俺が? 何でさ」
自分が必要とされる事は特に無いだろうに――有栖はぼんやりと思う。彼自身も〝忘却の澪〟という能力を持っているが、それは鼎の能力と比べると下位互換と言っても仕様が無い『過去を視る』だけのものだし、そもそも有栖は媒介者ではない。
昔事故に遭った時に右目を失明した彼は、一緒に巻き込まれ死んだ兄の角膜を移植された。その眼――即ちが兄が媒介者だったのだ。
数奇と言えば数奇な運命だろう。だが、彼自身はもう右眼とは折り合いを付けている。その切っ掛けを与えてくれたのが鼎であり、伽藍の堂で働く事になったというのは、また数奇ではあるが。
それでもしかし、自分は雑務以外では役に立たないだろうに。そう考えていると、柘榴は妙に不機嫌に言った。
『別に、お前の能力が必要って訳じゃないみたいだよ』
窓の桟に座り込み爪を立てて、かりかりと引っ掻いている。来た時にいきなり言った『気に入らない』事があるのだろうか。
(……ってか、何が?)
もしも自分の事だとしたら豪く理不尽である。
「あのさ、柘榴ちゃん。窓枠傷付くから、出来れば引っ掻くの止めて欲しいんだけど」
『…………』
余計に爪に力を入れ始めた。
「ちょ、止めて! 敷金引かれちゃうから傷付けないで!」
有栖が慌てて柘榴を抱き上げようとすると、彼女はそれを躱し、するりと有栖の脇を通り抜けた。そのまま有栖が寝ていた布団の上で丸まり言う。
『あたしは暫くここに居る。お前はさっさとカナエのところに行きなよ』
「いや、あの何言ってるんすか柘榴ちゃん。ってか、家のアパート動物禁止なんだけど……」
手を引っ掻かれた。
「痛ぇ!? 何すんだよ、俺何か悪い事したか!」
『うっさい。あたしは堂に今は帰りたくないんだ』
んん、と有栖は手の傷を押さえながら訝しむ。どうやら、柘榴の言からすると、気に入らない事は伽藍の堂にある様だ。
鼎と柘榴の仲はとても良い。良いから特に喧嘩もしない、というよりも互いに互いを解っているので、軋轢が生じ様が無いのだ。
有栖は堂で働き始めてまだ日が浅いが、それでも二人の関係が拗れる事は有り得ないと思う。寧ろ二人して自分を弄って遊んでくるくらいだ。それがどうしてか、今の柘榴は家出少女宜しく帰りたくないと言い始めていた。
「……嫉妬か」
がばっ、と柘榴は物凄い勢いで起き上がった。
『何だって?』
「柘榴ちゃん、嫉妬してんなぁ? 堂に誰か来てて、それで鼎さんが独り占めされてっから面白くないんだろ?」
『違う。いや、人が来てるのは合ってるけど、別に嫉妬なんかじゃない。ただ、あたしはあの女と馬が合わなくて、カナエが仲良くしてるのが気に入らないだけだ』
「世間じゃそれを嫉妬って言うんだよ」
柘榴が本気で言っているとしたら、素直じゃないを通り越して天然である。あの女とやらが余程気に入らないのか、柘榴はそちらにばかり意識が向いてしまっているらしい。
『いいからあたしは放っておいて。お前はカナエが呼んでるんだから急ぎなよ』
「んー、別にいいけどさぁ」
自分が呼ばれる理由が今一解らない。柘榴の言葉の端々から推測するに、どうやら来客の女性は鼎の知り合いらしい。その知り合いが来ている状況で、自分の必要性が何処にあるのだろうか。
柘榴を使いに出してまで――彼女にはそれが気に入らない事だったのかも知れないが――呼び出されても、やる事など無いだろう。
いや。
違うのだ。
(正直な話……ぶっちゃけ不安、なんだよな)
あの鼎の知り合いなんてモノは初めてだから、単純に有栖は本能的に拒んでいただけである。しかも何も予定が無かった日に、わざわざ呼び出しを掛けてきた。碌な予感はしない。
一人じゃ心許無いから誰か連れが欲しいなぁ――当然、それは柘榴なのだが。その当人はここを動きそうにないので、どうにかして煽らなければならない。
狡っ辛い事を考えていた有栖は、柘榴を横目で見ながら言った。
「……鼎さんに今の柘榴ちゃんの事、話しちゃおっかなぁ。柘榴ちゃんがこんなに嫉妬してるって知ったら、きっと鼎さん喜ぶだろうなぁ」
にやにやしながら有栖が言うと、柘榴は身を低くして軽く唸った。
「あ、怒った」
『アリス……あんまり調子に乗るなよ』
柘榴は有栖に眼を合わせじっと見つめてくる。ちょっと怖い。思わず有栖は気圧されて退いた。
「や、いや別に、今のは軽い冗談で」
『……いいよ』
「は?」
『あたしも行くよ。大方、あたしをここに居座らせない為の発破みたいなもんなんだろうけどさ』
ばれていた。
だがしかし、柘榴が付いてきてくれるというだけで、有栖は精神的に大分楽になる。彼女はまだ自分側でものを見てくれるし、話が通じる。どんな非常識な超能力者が現れても鼎がコンスタントに笑っていても、柘榴は有栖と同じレベルの一般人のリアクションを取ってくれる。人間である鼎よりも猫である柘榴との方が意思の疎通が図れるというのは何ともまぁ奇妙な話だ。
親近感に縋る矮小な目論見ではあったが、上手くいく事はいったのだ。
ただ、と柘榴は言った。
『苛ついてるあたしを揶う様な事を言った責任は取ってもらうよ』
「……責任?」
有栖は、その言葉を疑問というよりも、ただ反復しただけだった。一つ間が遅れて有栖は、言われた事を理解する。
「え、いや。いや、ちょっと待とうぜ柘榴ちゃん?」
『待たない』
柘榴は有栖が動揺している間に、身軽に手頃な高い位置に移動する。そして、その縦長の瞳孔の眼を細めて彼女は言った。
『あたしの爪は痛いぞ?』