毛根シネマティック・ユニバース(MCU)~秘密結社事件記録~
無鼻毛に悩む男が再生を果たす物語・序章
迫田は困惑していた。
テレビのニュースでは、一人の男性が怒り狂っている。
『被害男性は、頭部に高濃度毛根再生剤を噴霧され――』
画面に映る男の髪は、腰近くまで伸びていた。
つややかな黒髪。
量も申し分ない。
むしろ多すぎるほどである。
『私、四十年以上スキンヘッドなんですよ! 永久脱毛までしたんですよ!?』
男性はカメラへ向かって訴えていた。
『三時間ですよ!? 三時間でこれですよ!?』
迫田は無言でテレビを見つめた。
「……贅沢な」
思わず呟いた。
もちろん、被害男性にとっては深刻な事件である。
望んでもいない身体的変化を強制されたのだ。
怒るのも当然だ。
だが。
迫田には、生まれつき無いものがあった。
鼻毛である。
一本もない。
正確には極めて少ない、というべきなのかもしれない。
しかし実用上は、無いと言って差し支えなかった。
これが地味に辛い。
ゴミを吸う。
花粉を吸う。
塵を吸う。
時には小さな虫まで入ってくる。
そう。
迫田には無いのだ。
人類が長い進化の果てに獲得した、鼻腔内の天然超防御機構が!!!
「……鼻毛さえあれば」
迫田は何度そう思ったことだろう。
マスク。
フィルター。
鼻腔用の保護剤。
さまざまなものを試した。
だが違う。
迫田が欲しいのは、そんなものではない。
もっと自然に。
もっと当たり前に。
ただ鼻から、思い切り空気を吸いたいだけなのだ。
◇
そんな迫田が、高濃度毛根再生剤の存在を知ったのは数か月前だった。
画期的な再生医療技術。
頭皮へ噴霧するだけで、失われた毛根を活性化させる。
薄毛に悩む人々の救世主。
世界的な大ヒット商品。
迫田は考えた。
――毛根を再生する。
ならば。
鼻腔にも効くのではないか。
説明書には、
『頭皮専用』
と書かれていた。
迫田は悩んだ。
三日ほど悩んだ。
そして。
「……少しくらいなら」
試した。
鼻腔へ軽く噴霧。
待った。
一日。
三日。
一週間。
生えない。
「……濃度か?」
迫田は考えた。
そして今度は。
思い切り吸い込んだ。
「――ッ!!」
鼻の奥に刺激が走った。
涙が出た。
くしゃみが止まらなかった。
だが。
迫田は期待した。
一日。
三日。
一週間。
生えなかった。
「……なんで生えてこねぇんだよ!!」
説明書は正しかった。
『本製品は頭皮にのみ有効です』
大きく書いてあった。
鼻腔内の毛根には作用しないらしい。
「そりゃそうだ……」
迫田は、改めて気づいてしまった。
もし目的箇所以外にも効能があるのなら。
今頃、全身増毛事件がそこらかしこで発生しているはずなのだ。
「……まだだ」
一縷の望みをかけて、迫田は販売元のサポートセンターへ電話を入れた。
『はい、お客様相談窓口でございます』
「あの……こちらの製品なんですが、頭部以外にも効果のある製品を出す予定はないのでしょうか?」
『申し訳ございません。現段階では、頭部以外への効果については開発を中止しております』
「えっ」
『申し上げにくいのですが、需要の面で……。以前、眉毛への使用についてもお客様からご要望をいただき、検討したことはございます』
「眉毛……」
『はい。しかし、現段階では未着手となっております』
「……そう、ですか」
『お客様の眉毛にも効果があればよかったのですが……』
「いや、眉毛じゃ――」
『今回のご意見は、間違いなくお客様のご要望として承ります。このたびはご期待に添えず、申し訳ございませんでした』
「……はい」
電話が切れた。
迫田は絶望した。
眉毛ではない。
鼻毛なのだ。
眉毛ですら、需要不足で開発されていない。
まして。
鼻毛。
「……さらにニッチじゃねぇか……」
迫田は静かに天井を見上げた。
「俺は……生涯……」
数日後。
迫田は、また見てしまった。
今度はSNSで。
前回の、あの男だった。
画面に映る男性の頭は、綺麗に剃り上げられていた。
以前と同じ、見事なスキンヘッド。
男性は誇らしげにポーズを取っている。
そして動画の最後。
『頭皮永久脱毛へのご支援をお願いします』
クラウドファンディングの募集ページが表示された。
「……俺は生涯、新鮮な空気を気兼ねなく鼻から吸えないのか……!」
迫田は拳を握った。
神様は不公平だ。
画面の男には、望んでもいない毛が大量に生えた。
そして今、その毛を再び失うために金を集めている。
なのに。
自分には――。
「一本くらい……鼻に回せよ……」
迫田の目から、涙がこぼれた。
もう嫌だった。
埃が。
花粉が。
塵が。
そして何より。
「虫……」
迫田は顔を覆った。
「あいつら……!」
夏の夜。
気持ちのいい風。
軽い散歩。
そんなささやかな楽しみさえ、あいつらは破壊する。
鼻腔へ。
遠慮なく。
一直線に。
「なんで入ってくるんだよぉ……!」
迫田は泣いた。
もう疲れた。
こんな人生。
こんな鼻腔。
もう――。
◇
その日の夕方。
迫田は、当てもなく街を歩いていた。
気づけば、人通りの少ない路地裏へ入り込んでいた。
古びた建物。
シャッターの閉まった店。
人気のない細い道。
「……ん?」
ふと。
迫田の足が止まった。
小さな扉。
そこに。
さらに小さな金属製のプレートが貼られていた。
迫田は目を細める。
そこには、こう書かれていた。
『秘密結社カツラは世界を救う』
「……なんだこれ」
普通なら。
そのまま通り過ぎただろう。
だが。
その下。
さらに小さな文字がある。
迫田は顔を近づけた。
読む。
『求む 頭皮以外への被験者』
「……」
迫田は動かなかった。
一秒。
二秒。
三秒。
やがて。
震え始めた。
「……頭皮以外」
もう一度読む。
『求む 頭皮以外への被験者』
「……ある」
迫田の目から涙がこぼれた。
「まだ……道がある……!」
怪しい。
どう考えても怪しい。
秘密結社と書いてある。
自分で。
堂々と。
秘密結社と。
普通なら絶対に入らない。
だが。
迫田には、もう失うものなどなかった。
いや。
正確には。
**失っているものを取り戻したかった。**
「鼻毛……」
迫田は呟いた。
「俺は……ただ鼻毛が欲しいだけなんだ……」
涙を拭う。
深く息を吸おうとして。
途中でやめた。
また何か入ってくるかもしれない。
「……もう嫌なんだ」
そして。
迫田は。
ゆっくりと。
秘密結社のドアに手を掛けた。
残酷描写:鼻腔を虫が蹂躙する描写について。




