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夏の夜のレジスター

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/19

七月の夜、午後八時。格安スーパーの照明が、アスファルトの熱気に溶けていく。


私、三十八歳の川島麻衣は、エアコンの効いた店内に滑り込んだ。汗でブラウスが背中に張り付く。夫が失業して三ヶ月。貯金は底を突き、明日の朝食を買うお金すらギリギリだ。


でも、誰にも気づかれてはいけない。私は「ちゃんとした主婦」でなければならない。近所の人に会えば笑顔で挨拶し、子供には何不自由ない顔を見せ、PTAの集まりにも欠かさず出席する。


カゴを手に、見切り品コーナーへ向かう。三割引のシール。半額のシール。それでも、財布の中の千二百円では足りない。


パンの棚の前で立ち止まる。息子の好きなメロンパン。娘の好きなクリームパン。どちらか一つしか買えない。いや、どちらも買えない。食パンの耳を買って、明日は砂糖をまぶしたラスクにしよう。


ふと気づく。鏡に映った自分の顔が、誰かに似ている。


そうだ。母だ。


母は私が子供の頃、いつも笑顔だった。でも、ある夜、台所で一人で泣いている姿を見てしまった。父の給料が下がり、私たち三人の子供を育てるのが苦しかったのだと、大人になってから知った。


私も、母と同じ顔をしている。笑顔の仮面の下に、悲しみと不安を隠している。


いつから、私は「本当の自分」を隠すようになったのだろう。


カゴの中身は、食パンの耳、半額の豆腐、見切り品のキャベツ。合計で八百円。まだ余裕がある。


次に、日用品コーナーへ。洗剤が切れている。シャンプーも底をついた。でも、今日は食べ物が優先だ。


そのとき、向こうからPTA会長の佐藤さんが歩いてくるのが見えた。


慌ててカゴを体で隠す。見切り品だらけのカゴを見られたくない。佐藤さんの家は裕福で、いつも高級スーパーで買い物をしていると聞いている。


「あら、川島さん!こんな時間に」


「あ、佐藤さん。ちょっと買い忘れがあって」


笑顔を作る。完璧な笑顔。何の問題もない主婦の笑顔。


「そう。うちもなの。子供がアイス食べたいって言い出して」


佐藤さんのカゴには、高級アイスと国産牛肉が入っている。


「じゃあ、また明日の集まりで」


「ええ、また」


佐藤さんが去った後、膝から力が抜けそうになった。


レジに向かう。千円札一枚と、小銭。全財産。


店員は若い男性だった。名札には「佐伯」とある。バーコードをピッ、ピッとスキャンしていく。


「八百二十円です」


ホッとした。買える。


財布から千円札を出そうとしたとき、手が止まった。


ポケットの中に、もう一つ、握りしめているものがあった。


レトルトカレー。


値札シールを剥がして、ポケットに滑り込ませた。さっき、誰も見ていない隙に。


なぜ、こんなことをしたんだろう。


でも、子供たちに、せめてカレーを食べさせたかった。明日の夜、ご飯にかけて。それだけで、少し豪華な夕食になる。


千円札を差し出す。手が震える。


おつりを受け取り、袋を持って出口に向かう。


「お客様」


背中に声がかかった。


振り返ると、さっきの店員、佐伯さんが立っていた。


「少々、お時間よろしいですか」


心臓が止まりそうになった。


事務所に連れて行かれた。店長らしき年配の女性が、厳しい顔で待っていた。


「ポケットの中のもの、出していただけますか」


観念した。レトルトカレーを取り出す。


「これは……」


言い訳が出てこない。涙が溢れた。


「すみません。お金が、なくて。子供に、カレーを食べさせたくて」


店長は黙っていた。長い沈黙。


「警察を呼びます」


その言葉で、全てが終わった。夫に知られる。子供たちに知られる。近所に知られる。


「完璧な主婦」という仮面が、完全に剥がれ落ちる。


でも、不思議なことに、涙が止まらないのに、心が少し軽くなった気がした。


もう、隠さなくていい。もう、演じなくていい。


「本当に、すみませんでした。三ヶ月前に夫が失業して、貯金も底をついて。でも、近所の人には言えなくて。子供にも、平気な顔をしていて」


言葉が溢れる。堰を切ったように。


「毎日、不安で。悲しくて。でも、笑顔でいなきゃいけなくて」


店長は、しばらく私を見ていた。そして、小さくため息をついた。


「警察は、呼びません」


「え?」


「その代わり、話を聞かせてください。本当のことを」


佐伯さんが、お茶を淹れてくれた。


私は全てを話した。夫の失業。貯金の枯渇。子供に心配をかけたくない気持ち。誰にも相談できなかったこと。


店長は静かに頷きながら聞いていた。


「川島さん。私も、昔、同じでした」


「え?」


「二十年前、夫が病気で倒れて。収入がなくなって。でも、プライドが邪魔して、誰にも助けを求められなかった」


店長の目が、遠くを見ていた。


「でもね、ある日、近所のおばあちゃんに泣きながら打ち明けたら、すぐに地域の支援団体を紹介してくれたの。フードバンクとか、生活相談の窓口とか。そこで知ったのは、助けを求めることは、恥ずかしいことじゃないってこと」


佐伯さんが、パンフレットを差し出した。


「市のフードバンク、ここで登録すれば、食料品を無料で受け取れます。生活保護の相談窓口もあります」


私は、プライドという鎧を、そこに置いた。もう、必要ない。


店を出るとき、店長が小さな袋を渡してくれた。


「今日は、これ。明日、フードバンクに行ってください。一人で抱え込まないで」


袋の中には、パン、レトルトカレー、お米、缶詰。


「お金は……」


「いいのよ。賞味期限が近いやつ、どうせ廃棄するんだから」


佐伯さんも笑顔で頷いた。


「僕の母も、昔、助けてもらったって言ってました。今度は、誰かを助ける番だって」


夜の道を歩きながら、袋を抱きしめた。重い。温かい。


家に帰ると、リビングで子供たちが宿題をしていた。


「ママ、おかえり」


「ただいま。今日ね、すごくいいものもらってきたの」


袋の中身を見せると、子供たちの目が輝いた。


「カレーだ!」


「お米もある!」


夫がキッチンから出てきた。就職活動で疲れた顔をしている。


「今日、二社面接受けたけど、ダメだった」


「そっか。でもね、今日、私、大事なことに気づいたの」


夫が不思議そうな顔をする。


「私たち、お金はないけど、助けてくれる人がいる。それって、すごく幸せなことなんじゃないかって」


食卓を囲む。カレーの香りが部屋に広がる。


娘が言った。


「ママ、最近、なんか変わったね」


「え?」


「前より、笑ってる。本当に笑ってる感じ」


息子も頷いた。


「うん。前は、笑ってるけど、目が笑ってなかった」


夫が私の手を握った。


「ごめん。俺が働けなくて」


「ううん。あなたのせいじゃない。それに、私、今まで一人で抱え込みすぎてた」


窓の外、夏の夜空に星が瞬いている。


明日、フードバンクに行こう。生活相談の窓口にも行こう。PTAの集まりで、佐藤さんに本当のことを話そう。きっと、私と同じように苦しんでいる人がいる。


条件は何も変わっていない。夫は無職だし、お金もない。


でも、今日の私は、昨日の私より幸せだ。


なぜなら、もう隠さなくていいから。もう一人じゃないから。


カレーを一口食べる。温かい。美味しい。


「いただきます」


家族の声が重なる。


この瞬間が、奇跡のように愛おしい。


完璧な条件なんて、最初からなかった。でも、この食卓には、確かに幸せがある。


店長が最後に言った言葉を思い出す。


「幸せってね、手に入れるものじゃなくて、気づくものなのよ」


そうか。私は今まで、「いつか幸せになる」と思っていた。お金が貯まったら。夫が仕事を見つけたら。


でも、違う。


幸せは、今ここにある。この温かいカレーの中に。子供たちの笑顔の中に。夫の手の温もりの中に。そして、見知らぬ人の優しさの中に。


それに気づけるかどうか。それだけだったんだ。


夏の夜。蝉の声が窓から聞こえる。


私は、本当の意味で、生まれ変わった。


仮面を脱ぎ捨てて、本当の自分として。


そして、その私は、誰よりも自由で、誰よりも幸せだった。

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