5話
その夜。
ビューは寮の自室で、机に向かっていた。
……けれど、ペンが動かなかった。
外界実習レポートは毎日提出が義務だ。
出さなければ単位に響く。
(書かなきゃ……でも……書けない……)
胸の奥が、まだじくじく痛む。
今日の「優しい圧」が、頭の中で何度も再生される。
『次から気をつければいいだけだからね』
『新人って努力が足りないよね』
『できる人は、最初から姿勢が出るものだよ』
全部、笑顔だった。
全部、穏やかな声だった。
怒鳴られたわけではない。
……だからこそ、怖かった。
(僕……やっぱりダメなのかな……)
思わず、そんな言葉が心の底から浮かんだとき──
コンコン、と扉がノックされた。
「ビュー、大丈夫かー?」
アッシュの、少し雑な声。
ミューの柔らかい気配と、ラザン特有の、ぼよん、とした足音も聞こえる。
「ビュー、入るぞ」
声を発する前に、扉が開き、アッシュ、ミュー、ラザンが揃って入ってきた。
◇
アッシュが腕を組み、部屋をぐるりと見渡す。
「お前、食堂で見てからずっと顔が死んでたからな。ほっとけねぇだろ」
ミューも心配そうに近づいてくる。
「……なにか、あったんでしょう……?」
ラザンは相変わらずマイペースだ。
「そーゆー時はね、“ぷるぷるすると治る”って教わったよ!」
「……教わってないよね?絶対違うよね?」
本気で言っていそうなので、誰も強くツッコめなかった。
「……来てくれて、ありがとう。
ほんとに……ちょっと、正直かなりしんどかった」
ビューは、少しだけ力なく笑い、今日の経緯を説明した。
◇
アッシュがベッドに腰を下ろし、ため息をつく。
「分かるぜ。ああいう“丁寧にエグってくるタイプ”、一番タチ悪いからな」
ミューがこくんと頷く。
「しかも、優しそうな人ほど……
“自分が悪いのかな”って、余計思っちゃうし……」
「うん……まさにそれで……
自分の悪いところしか、見えなくなるというか……」
アッシュは、ぽん、とビューの肩を叩いた。
「でもな、ビュー。
お前が“悪い側”だとしたら、俺たち全員とっくに外界から追放されてるぞ」
ミューも、やわらかく笑う。
「外界はね……ほんと、理不尽あるよ。
でも、悪いのは“外界の方”だったりするんだよ……」
そして、ふと思い出したように続ける。
「だって……私のバイト先の店長さんだって、外界のヒトなのに……
たまに“ほんと疲れる……”って死んだ目で言ってるもん。
ニンゲンなのに、ニンゲン界の愚痴言うんだよ……?
あれ見ると、ああ……外界って大変なんだなぁって思う……」
ラザンが胸を張った。
「ぼくはねぇ、一回も“自分が悪かったな〜”って思ったことないよ!」
「お前はそのままでいてくれ……」
三人の言葉と、いつもの調子が、
ビューの呼吸を少しずつ整えていく。
(……大丈夫。
少しは……前に進める……)
深呼吸を一つしてから、
ビューはレポート画面に向き直った。
◇
震えそうになる指を、意識してゆっくり動かす。
今日はごまかさない。
うまくまとめようとせず、あったことをそのまま書く。
パンの向きの話。
新人だから、努力が足りないと言われたこと。
怒鳴られてはいないのに、ひどく苦しかったこと。
書き終えて、送信ボタンを押す。
「……送った」
ほんの数十秒後、画面に通知が浮かんだ。
「……早っ」
アッシュが眉をひん曲げる。
「いつも思うけどさ……
教授の返信速度って地味に異常だよな。
ん? 俺だけじゃない? これを全員分?」
ミューもくすりと笑って肩をすくめる。
「ね……精神状態、完全に読まれてる気がするよね。
送った瞬間に裏で見てるんじゃないかな……」
ラザンがぼよんと跳ねる。
「教授、実はいっぱいいる説〜!」
「いやそれは怖ぇよ!
けど、あながち否定できねぇ……」
アッシュが即ツッコミをする。
ビューは小さく息を飲み、震える指で通知を開いた。
◇
《ビュー君。
まず、最初に一つだけはっきりさせましょう。
あなたは、ミスをしていません》
スクロールする手が止まった。
《“パンの向き”で人格や姿勢を評価する世界は、
あなたが合わせる必要のない世界です》
胸の奥が、少しだけふっと軽くなる。
教授の文章は、淡々と続いていく。
《ニンゲン界には、
“相手を裁くことで自分を安心させたい者”
という種別が一定数存在します》
《彼らは、あなたがどう振る舞おうと、どこかに欠点を見つけます。
そこに論理はなく、改善への意図もありません。
ただ、自分が優位な位置に立っていたいだけです》
アッシュが画面をのぞき込み、思わず笑う。
「ほら来た。教授のキレッキレ分析タイム」
ミューも、肩の力が抜けたように微笑む。
「優位に立ちたいだけ……ほんと、そうだよね……」
ビューは目を戻し、続きを読む。
《怒鳴る者の方が、まだ分かりやすい。
しかし、笑顔と丁寧な言葉で刺す者は、もっと厄介です》
《受けた側は、“自分が悪いのではないか”と、
自分の中に原因を探し始めてしまう》
《私はこれを、“偽装された善意の圧力”と呼んでいます》
(……偽装された、善意……)
言葉が、すとんと胸の奥に落ちた。
教授の文章は、さらに深いところに踏み込んでいく。
《いいですか、ビュー君。
理不尽は、あなたの鏡ではありません》
《そこに映っている“欠点のように見えるもの”は、
あなた自身の本質ではなく、
相手の心の形がゆがんで映り込んだ、ただの残像です》
「これ、寮の廊下に貼っとこうぜ」
「分かる……読むだけで、胸がすっとする……」
「難しいことは分かんないけど、なんかスッキリする〜」
ビューの目に、じんわりと熱がこもっていく。
(……僕の本質じゃない。
相手のゆがみ……)
《あなたは、“反省”という魔術を真面目に使いすぎています》
《優しい者ほど、自分を責めやすい》
《しかし──》
《他者の感情は、あなたの責任ではありません》
ビューは、思わず息を止めた。
(……そんなふうに、言われたの、初めてだ)
教授の文章は、静かに締めくくられていた。
《境界線とは、
“どこまで自分を差し出すか”を決める線です》
《今日は、あなたはその線を少し越えて踏み込まれてしまった。
それだけのことです》
《壊れてはいません。
線を引き直せば、また立ち上がれます》
《明日は、少しだけ距離を取ってみなさい》
《大丈夫。
あなたは、よくやっています。
どこに出しても恥ずかしくない、立派な実習生です》
画面がにじんだ。
気づけば、頬に一筋、涙が伝っていた。
アッシュが目を丸くする。
「……ビュー、泣いてる?」
ミューは、優しく笑った。
「泣いていいんだよ。
教授、ちゃんと見てくれてるもん……」
ビューは、少しだけ声を震わせながら笑う。
「……なんか……重たかったのが、抜けた気がして……
苦しかった理由が……やっと、言葉になったというか……」
ラザンが、よく分からない方向から感想を述べる。
「ぼく、ビューが泣いてるとね、一緒にお風呂入りたくなる〜」
「お前は黙っとけ」
アッシュのツッコミに、ミューがくすっと笑い、ラザンは首を傾げる。
その空気ごと、ビューの中の何かが、ふっとほどけていく。
ビューはそっと画面を閉じた。
(……明日、少し距離を取ってみよう。
全部、僕のせいじゃなかったんだ)
胸の奥に、
小さな光が灯るのを感じた。
◇
窓の外では、夜空が静かに瞬いていた。
(外界は、やっぱり怖い。
でも……教授の言う“境界線”を覚えれば、
僕でも、きっとやっていける)
優しい種類の覚悟が、胸の奥に広がっていく。
ビューは布団に潜り込み、
ゆっくりと目を閉じた。
明日も外界に立つために。




