4話
昼過ぎのカフェは、
混んでもいない、空いてもいない──
外界特有の、静かなざわめきに満ちていた。
ビューは、いつも通りカウンターに立っていた。
接客にも、だいぶ慣れてきた気がする。
昨日の“笑顔で刺してくる客”の記憶はまだ痛いけれど、
ユイや店長のフォローがあったおかげで、何とか持ち直していた。
(今日は……何事もありませんように)
そう祈った、その日のことだった。
◇
昼下がり。
スーツ姿の男性が、ゆっくりと店に入ってきた。
一見、穏やかそうな人だ。
髪型もスーツも整っていて、
声も低く、落ち着いている。
「すみません、カフェラテのホットと……
あと、このパン、温めてもらえますか?」
「は、はい。かしこまりました」
ビューがにこっと笑って答えると、
男性も同じように、にこりと微笑み返してきた。
その瞬間まで──
本当に“普通の客”だと思っていた。
◇
パンを温め、カフェラテと一緒にトレーに乗せる。
ビューは慎重に席まで運び、テーブルに置いた。
「お待たせいたしました」
「……あぁ、うん。ありがとう」
声は柔らかい。
表情も穏やかだ。
(良かった。普通に終わりそう……)
そう思った、その時。
「……あれ?」
男性が小さくつぶやいた。
ビューは反射的に首を傾げる。
「何か、ございましたか?」
「いや、そのね……」
男性は笑顔を崩さないまま、静かに言った。
「パンの向きが、逆、なんだけど」
(……え?)
「……え?」
二人の声が、同時に出た。
「すみません、“逆”というのは……?」
男性はにこにこと微笑んだまま、
丁寧な口調で説明を始める。
「パンの……この焼き目の模様があるだろう?
僕はこれを、手前に向けてほしいんだ。
そっち向きだと、食べにくいというか……
まあ、気分の問題なんだけどね」
(気分……)
胸の奥が、ざわっと揺れた。
パンの向き。
そんなこと、誰からも教わっていない。
「申し訳ございません……すぐに向きを調整いたします」
「いやいや、いいんだよ。
君はまだ新人なんだし。
新人はミスするものだからね。」
にっこり。
穏やかな笑みを崩さないまま、
“新人だからミスをした”という前提だけを、そっと置いていく。
ビューはパンの向きを変え、再び男性の前に置いた。
「失礼いたしました」
「うん。ありがとう。
次から気をつければ、いいだけだからね」
また、にこり。
胸の奥に、じわりと黒いものが染みていく。
(僕……責められてる……?
でも、怒鳴られてるわけじゃない……
なのに、すごく苦しい……)
言葉と態度が噛み合わない。
優しさの形をしていながら、
中身だけがじわじわと刺さってくる。
(……これも、災害……?)
教授の言葉が、ふと頭をよぎった。
それで終わり──のはずだった。
男性はカップに口をつけ、一口飲んでから、
ふと雑談のような声色で話し始めた。
「気にしなくていいよ。
僕も新人の頃は、失敗ばっかりだったしね」
笑っている。
「たださ──」
笑顔はそのまま。
声だけが、ほんの少し低くなる。
「こういう“小さなところ”に気づける人がね、
“社会に出てから評価される人”なんだよ」
ぐさ、と何かが刺さった気がした。
「できる人ってさ、最初から“できる姿勢”が出てるものなんだ。
新人って、努力が足りない部分を“新人”って言葉でごまかしがちだけどね」
ぐさ、ぐさ、と続けざまに。
「でも、それじゃあダメなんだよ」
にっこり。
笑顔のまま、言葉だけが鋭い。
(努力……足りない……?
僕、そんなに悪いことした……?)
(パンの向きだけで……
僕の“姿勢”まで評価されるの……?)
(僕という存在そのものが、責められてるみたいだ……)
胸がぎゅっと縮む。
呼吸が、少しだけ浅くなる。
◇
「すみません、お客様」
柔らかい声が、そっと割り込んだ。
ユイだった。
いつの間にか、ビューの少し後ろに立っていた。
「もし何かお気づきの点がございましたら、
私の方でお伺いいたします」
ユイは自然な流れで前に出ると、
振り返ってビューの肩に手を置いた。
「ビューくん、少し休憩に入っていいよ」
その言葉の優しさに、
胸の奥がじわっと熱くなる。
(ユイさん……)
ビューが小さく頭を下げて離れようとした時、
男性がぽつりとつぶやいた。
「やっぱり……まだ厳しいかな……」
そのひと言が、
とどめのように刺さった。
◇
休憩室に飛び込むようにして入り、ビューはそのまま椅子に腰を下ろした。
(怖かった……)
手がわずかに震えている。
(なんで……あんなに優しい言い方なのに……
こんなに胸が痛いんだ……?)
怒鳴り声なら、まだ分かりやすい。
露骨な罵倒なら、「ひどい」とラベルを貼れる。
以前のような、些細であってもミスであれば、何とか腑に落ちる。
けれど──
柔らかい言葉の中に混ざった否定は、
どこからが理不尽で、どこからが自分の反省点なのか、境目が分からない。
(僕が悪いのかな……
ほんとに努力、足りないのかな……)
(パンの向き……そんなに大事だったのかな……)
涙がにじみそうになる。
でも、こぼれない。
(……理由が、分からないから)
自分の何が悪かったのか、はっきりしない。
だから、どこを直せばいいのかも分からない。
ぐるぐると同じ場所を回るような思考が続く。
そこへ、ノックも軽く扉が開いた。
「……やっぱりここか」
店長だった。
◇
「大丈夫か?」
「……はい。大丈夫、です。僕が、未熟で……」
条件反射のように、そう答えてしまう。
店長はすぐさま首を振った。
「違う。
さっきのは、君の未熟さの話じゃない」
ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。
「アレはな、“自分が正しい側”でいたいタイプなんだよ。
相手を下に置いておくことで、安心する人」
「でも……パンの向きは……」
「パンの向きなんて、どうでもいい」
店長はあっさりと言い切った。
「っていうか、うちの店にパンの向きのルールなんてねぇよ。焼き加減で変わるし。
アレはな、“気づける自分”でいたくて、
それを相手にも押しつけてるだけだ」
「……僕の努力不足じゃ、ない……?」
「努力不足だったら、俺が最初に言うよ。
でもビューくんは、ちゃんとやってる」
店長は、真っ直ぐな目で見てきた。
「さっきの件、俺の中では“何も問題なし” ──どころか、“アレ”は客じゃねえ。
だから、これ以上は自分を責めるな。
……あと、悪かった。俺がアレは追い出すべきだったわ」
その言葉は、
すぐには沁みきらないけれど──
心のどこかに確かに引っかかって、ビューを支えてくれる。
(……店長は、ちゃんと見てくれてる)
それだけでも、少しだけ呼吸が楽になった。




