3話
外界実習が始まって、一週間ほど経った。
ビューは、少しだけこの世界に慣れてきていた。
覚えることは多いけれど、ユイも店長も優しい。
寮に戻れば、同期たちの「災害報告会」があって、
話を聞いていると「自分だけじゃない」と思える。
(今日も……頑張ろう)
そう決意して喫茶店に向かったビューは、
自分がまだ“もう一段階深い理不尽”に触れていないことを知らなかった。
◇
昼前。
店内が少し賑わい始めた頃──彼女は来た。
柔らかな笑顔を浮かべた女性。
清楚で、落ち着いていて、優しそうに“見える”。
「すみません、こちらお願いできますか?」
丁寧な声。落ち着いた所作。
ビューは安心して“カフェモカ”の注文をハンディに入力した。
「はい!カフェラテのホットと、スコーンですね。
お席までお持ちします!」
「ありがとう。助かるわ」
にこっ。
……その笑顔が、
“外界では注意が必要な種類の笑顔”であることを、
この時のビューはまだ知らなかった。
◇
ドリンクを持って席へ運ぶ途中、ビューの手がわずかに震えた。
(落とさないように……ゆっくり……)
慎重にカップを運び、テーブルにそっと置く。
「お待たせしました。カフェモカとスコーンです」
「……あの」
女性客が声をかけてきた。
「これ……カフェモカで合ってるわよね?」
「は、はい!」
「あなた、さっき注文を復唱した時──
“カフェモカ”じゃなくて、“カフェラテ”って言ってなかったかしら?」
「えっ……」
もしかすると、緊張で言い間違えたような気もする。
だが、レシートの印字も、カップの中身も、ちゃんとカフェモカだ。
「す、すみません!気をつけます!」
女性はさらに優しく微笑む。
「うん。気をつけてね。
社会に出たら、こういう“些細なミス”が一番信用を失うのよ?」
背筋に、ぞくっと冷たいものが走った。
(……え?
僕、そんなに悪いこと、した……?)
声は柔らかい。
言葉も、一見まともだ。
でも、その下になにか鋭いものが隠れている。
笑顔のまま、女性は言葉を重ねた。
「アルバイトでも、ちゃんとできる人はすぐ分かるわ。
あなた、素直で頑張り屋さんなんだと思うけど……」
「は、はい……」
「努力が足りないだけよね?」
胸の内側を、刃物でなぞられたような感覚が走った。
笑顔で。
優しい声で。
完璧な所作で。
その一言だけが、やけに重くのしかかる。
(努力……足りない……?
僕、そんなに……?)
(注文は合ってた……でも……
僕が悪い、ってことなんだろうか……)
言っていることと、状況が噛み合わない。
怒鳴られているわけじゃない。
罵倒されているわけでもない。
なのに、
強烈な罪悪感だけが押しつけられてくる。
(これが……教授の言ってた“災害”……?)
そう思いかけた時──
「ビューくん、大丈夫?」
ユイがそっと声をかけてきた。
◇
カウンターに戻ったところで、ユイが小声で尋ねる。
「さっきのお客さんに、何か言われちゃった?」
ビューは、さっきの会話を簡単に説明した。
ユイの表情が、ほんの一瞬だけ険しくなる。
「……あのお客さん、常連さんなんだけどね。
優しいんだけど、“ちょっと圧が強い人”なんだ」
「圧……」
「うん。言ってることは間違ってない風なんだけど……
言われた方はすごく疲れちゃうやつ。
ビューくんは悪くないよ。深く気にしないで?」
(気にしないで、って……どうやって……?)
その問いだけが、胸の底に沈んでいった。
◇
休憩時間。
ビューは休憩室の椅子に座り込み、両手を見つめた。
(僕……努力が足りない……?
あの人の言う通りなのかな……)
(でも、注文は合ってた……
言い間違えたのは悪かったけど……
“信用を失う”って言われるほどだったのかな……)
考えれば考えるほど、答えはぼやけていく。
(分からない……外界の人、どうしてこんな言い方を……)
胸の奥がじくじく痛む。
泣きそうなのに、泣けない。
(だって……どこまでが“僕のせい”なのか、分からない……)
そんな時、休憩室の扉がノックもなく開いた。
「お、いたいた。ここに隠れてたか」
店長だった。
◇
「ビューくん、さっきの話聞いたよ」
店長は壁にもたれ、腕を組んだ。
「なんか、言われちゃったみたいだな。あの人に」
「……僕、ミス、しました。
復唱……間違えたのは、事実で……」
「それはそうだな。
でも、確認して出したのは注文どおりのカフェモカだろ?」
「……はい」
「じゃあ問題ないよ」
店長はあっさりと言った。
「復唱の言い間違いなんて、誰でもやる。俺だってやる。
“信用を失う”とか、あの人の言い方が大げさなだけ」
少し間を置いてから、続ける。
「あの常連さん、“人当たり良さそうに見える圧タイプ”なんだよ。
新人さん、よくやられる。
こっちとしては止めてほしいんだけど、悪気はないんだろうな」
「悪気……ないんですか?」
「多分な。
“自分の思う正しさ”を、相手にも求めちゃうタイプなんだと思う。
だから、言われた方はしんどい」
店長は、少しだけ真面目な顔になる。
「でも、はっきり言っとく。
ビューくんは、よくやってる。
さっきの件で“信用を失う”なんてことは、絶対にない」
その言葉が、じわりと沁みてくる。
(……店長が、そう言ってくれるなら……)
痛みが完全に消えたわけではない。
けれど、支えになる何かがひとつ増えた気がした。
◇
寮に戻ると、いつものメンバーがそろっていた。
「ビュー! 今日、めちゃくちゃ顔色悪かったってユイさんからチャット来たぞ!」
アッシュがいきなり核心に触れてくる。
「え、チャット来てたの……」
「“ちょっとフォローしてあげてください”ってな。
で、なにがあった?」
ミューが心配そうに身を乗り出す。
「な、なにかあったよね……? すごく疲れた顔してる……」
ラザンは、マイペースにゼリー飲料をもぐもぐしていた。
「きょーの、びゅー、いつもより、ぷるぷるしてなかった〜」
「俺はスライムじゃないからね?」
みんなの顔を見て、
ビューは少しだけ迷ってから、今日の出来事を話した。
女性客の笑顔。
復唱のミス。
「努力が足りないだけよね?」という一言。
話し終えると、空気がしんとした。
アッシュが一番最初に口を開く。
「うわー……それ、一番メンタル持ってかれるやつだな」
ミューも苦笑いする。
「分かる……ああいう、“優しく見える人”の圧って、きついよね……
怒鳴られたりするより、ずっと怖い……」
ラザンが首を傾げる。
「ぼく、そういうの言われたことあるのかなぁ……
あっても、たぶん気づかないなぁ……」
「ラザンはそのままでいてくれ……」
いつものやり取りに、
ビューは思わず笑ってしまった。
(……ああ。やっぱり、この三人がいてくれてよかった)
◇
部屋に戻り、今日のレポートを書く。
【外界実習レポート・7日目】
・笑顔で、努力不足を指摘される
・注文は合っていたが、復唱ミスを強く責められた気がした
・店長は「問題ない」と言ってくれた
・自分のどこまでを反省すべきか、よく分からない
送信すると、すぐにフォルネウス教授から返信が届く。
《ビュー君。
“丁寧に見える圧力”は、ニンゲン界ではよく見られる現象です。
怒鳴る者より厄介で、怒らない分だけ深く刺さります》
《復唱の言い間違いは、ニンゲンも魔族も誰にでも起こり得る小さな誤りです。
彼女は“自分の正しさの基準”から外れたあなたを、
自分の枠に戻そうとしただけです》
《これは、あなたの努力不足の問題ではありません。
単に、彼女の枠が“狭い”だけです
本来であれば、その場で軽く確認をすれば良いだけなのですから》
《理不尽とは、理由なく降る雨のようなもの。
あなたがどれだけ反省しても、次の雨は止みません。
ですから、濡れたからといって、
「自分の価値が低い」と結論づける必要はないのです》
ビューは画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
(……そうか。
あれは、僕が悪いという話じゃなくて……)
(“あの人の枠”の問題、なんだ)
胸の痛みは、まだ完全には消えない。
でも、「自分だけが悪い」のではないと分かるだけで、
少しだけ足元が安定した気がした。
◇
布団に潜り込み、天井を見上げる。
(ユイさんや店長がいて、同期もいて、教授もいて……
それでも外界は、やっぱり怖い)
(でも──
“怖いままでもいいから、続けてみよう”って、今は思える)
目を閉じる。
明日もまた、喫茶店に立つ。
外界の理不尽は、まだこれからも降り続けるだろう。
けれど、そのたびに濡れ方を覚えていくしかない。
ビューはそんなことをぼんやり考えながら、
静かに眠りに落ちていった。




