声の届かない夢
その夜、フィオナは深く眠っていた。
心は疲れていたが、身体はどこか安心していた。
母の故郷の空気が、そうさせたのかもしれない。
──そして夢を見る。
夢は、いつも突然に始まる。
薄明りの森。
木々が霧に沈み、どこまでも白い世界。
そこに、背の高い女性が立っていた。
フィオナはその横顔を知っている。
写真でも、肖像画でも、記憶でもない。
もっと根本的なところで知っている顔。
その人は、振り返らない。
ただ遠くの闇のような光のような場所を見つめていた。
「……おかあ、さま……?」
呼んだ声は、夢の中では幼いまま。
五歳のときのまま。
女性の肩がわずかに揺れた。
けれど、ゆっくりと首を振る。
「だめよ、フィオナ。」
声は、優しい。
優しいのに、ひどく遠い。
「来てはだめ。ここは終わりの場所。」
足元に広がる影が、じわりと形を変える。
その影は、誰かの手のようで。
誰かの血のようで。
誰かの悲鳴のようで。
それでもフィオナは、幼い足で一歩踏み出す。
「どうして……どうして行っちゃうの……?」
問いは、幼い。
けれど、心は今のフィオナのものだった。
女性は、ようやく振り返る。
その瞳は、ひどく、綺麗だった。
涙ではじけそうなほどに。
「あなたを置いて行ったんじゃないの……。ごめんね。」
影が女性の足から腰まで絡みつく。
どこかへ引きずり降ろそうとしているように。
フィオナは手を伸ばす。
「いや……いやだ……」
女性は微笑んだ。
その笑顔は、あの日の肖像画にも、記録にも残っていない。
けれど、確かに母親の表情だった。
「大丈夫。あなたは私より強い子よ。」
影が一気に女性を飲み込んだ。
「まってっ……!!」
指先は触れない。
声は届かない。
あたたかさは、もう思い出せない。
「……っ、は……っ……!」
フィオナは、息を呑みながら目を覚ました。
朝の光は優しいはずなのに、胸が痛む。
頬は濡れていた。
喉は張り付いていた。
呼吸は乱れていた。
でも、涙は止まらなかった。
「……どうして……どうして……」
言葉にならない。
言葉にしたら崩れてしまうから。
夢だった。
夢のはずだった。
けれど、あの声は。
あの表情は。
“知っている” と心が言っている。
朝の光が、応接室の大きな窓から差し込んでいた。
カーテンの隙間から柔らかく射し込む光は、夢の霧のように淡く、しかし確かに温かかった。
フィオナはうつ伏せで眠っていた。
枕に押し付けた頬には、まだ昨日の夢の余韻が残っていた。
指先には、寝返りの跡にできた小さなシワが残っている。
目を覚ました瞬間、胸の奥がざわついた。
夢の中の母の声がまだ耳に残っている。
小さな体を起こし、しばらく応接室の静けさに耳を澄ます。
窓の外では、城内庭園の小鳥たちがさえずっていた。
その無邪気な声が、心を切り裂くようだった。
「……あの夢……本当に……」
フィオナは手を胸にあて、言葉にならない息を漏らした。
そのとき、扉が静かに開いた。
「おはよう、フィオナ。」
声の主は、叔母のエレノアだった。
昨日よりも落ち着いた表情をしている。
しかし瞳の奥には、覚悟の光が宿っていた。
「じゃあ案内するわ。ティアナお姉さまの部屋へ。」




