【第五章】努力の否定 ― 灰の信仰(3)光の来訪
翌朝の鐘は、鳴らなかった。
鍛冶師が「灰が舌を重くする」と冗談めかして言ったが、誰も笑わなかった。笑わないことが、この村の礼儀のように思えた。
広場の火はまだ細く燃え、夜の境界線を辛抱強く温めていた。盲目の魔術師は指を組み、風の層を整える。歌い手は口の形で朝の歌をなぞる。響かない歌は、しかし、胸郭の内側では確かな拍子になる。
灰は、今日も降っている。
降りながら、世界の輪郭を柔らかくしていく。
柔らかくなった輪郭の中に、一つだけ硬いものが近づいてきた。白。
道のほうから、光が歩いてくる。走らない。いつも歩く。歩幅は一定で、地面を傷つけない。
セイリオスだった。
彼は村の入口で一度だけ立ち止まり、木札の列を見上げた。目の底に、薄い痛みが走る。痛みは、彼がまだ人間の側にいる証だ。
鍛冶師が砥石を止め、盲目の魔術師が風を落とし、歌い手が口の形を閉じる。火の音だけが残る。
セイリオスは誰にともなく頭を下げ、広場の中心まで歩いてきた。そこに、リアンがいる。灰が肩に積もり、黒い剣が背に横たわっている。
「リアンさん」
「光の側は、今日も優しいか」
「分からない。だから、あなたに会いに来た」
「俺は答えを配る神父じゃない」
「知っています。あなたは――剣で答える人だ」
彼は笑おうとして、笑えなかった。笑いを咎める者はいないのに、笑う場所を世界が用意していなかった。
ナユが広場の端から覗き、すぐに影に隠れた。鍛冶師は片腕で火ばさみを握り直し、盲目の魔術師は顔を少しだけ上げる。歌い手は喉の奥で、音の出ない音を揺らす。
灰は、ゆっくり降っている。
「努力は、意味がないのですか?」
セイリオスは真正面から問う。声は静かだが、静けさのたびに内側で何かが崩れている音がした。
「意味はある。美しいという意味が」
「それで充分では?」
「美しさは、飢えを満たさない。死者を起こさない。報いじゃない」
彼はほんの少しだけ目を伏せる。
「でも、僕は見た。努力が人を変えていくのを。あなたが、そうだった」
「俺は変わらなかった」
「変わりました。あなたは――折れなかった」
「折れないことが、救いだと思うか」
「……思いたい」
「思いたい、が毒だ。人は、思いたいものに殺される」
風が二人の間を通り抜け、灰が舞う。音のない舞い上がりは、言葉の隙間を埋め、同時に広げる。
セイリオスは村の人々に目を向ける。鍛冶師の片腕。盲目の瞳。声のない歌。
「僕は、こういう人たちのために祈りを使う。努力も、祈りも、道具だと思っている」
「道具は、持つ手を選ぶ。
祈りは、持つ者が正しいと名乗るために作られた道具だ」
「違う。祈りは――」
「救いじゃない。祈りは、救いの形をした支配だ」
セイリオスの喉がわずかに詰まる。
リアンの声は落ち着いている。落ち着きは、狂気の兄弟だ。感情を切り落とした理性は、刃になる。
彼は続ける。
「努力も同じだ。『続ければ報われる』――美しい。
美しいから、手放せない。美しいから、諦められない。
諦める自由より、続ける義務が先に来る。
神のいない牢だ」
「それでも、続けることが人を助ける」
セイリオスは一歩、近づいた。
「あなた自身が証明した。あなたの努力は、あなたをここまで連れてきた」
「ここまで、どこだ」
村の火が、ぱちりと鳴る。
リアンは広場を見渡す。
木札の列。未記入の板。赤子を抱いた旅の女の眠そうな横顔。ナユの固い指。鍛冶師の砥石、魔術師の風、歌い手の沈黙する声。
「祈りは、ここまで連れてこなかった。努力も――俺を救わなかった。
俺をここまで連れてきたのは、届かなかった痛みだ」
セイリオスの瞳に、痛みが映った。
痛みは、彼の持ち物ではない。映っただけだ。
映るだけの痛みは、時に持ち主よりも正確に世界を見抜く。
「……ミリアは、あなたを信じている」
彼がそっと名を口にした瞬間、世界の輪郭がほんのわずか柔らかくなった。
ミリアの名は祈りの名ではない。願いの名だ。人へ落ちる名。
リアンは喉に上がった音を飲み下し、乾いた声で言う。
「俺は、彼女の信じるものを壊す」
「それでも、彼女は祈る。神にではなく、あなたのために」
なぜ彼はそんなことが言えるのか。
セイリオスの言葉は、善意の形をしているからこそ残酷だ。
善意は刃より遅く届き、遅く届くものは、心の柔らかい部分をじわじわ押し潰す。
「……なら、俺は祈りの側でなく、人の側で死ぬ」
言い切った瞬間、広場の空気がほどける前に、固く結ばれた。
盲目の魔術師が、火の上の風をわずかに強める。鍛冶師は砥石を置き、歌い手は唇を重ねる。
ナユが影から半歩出て、すぐに引っ込んだ。
灰は、ゆっくり降っている。
◇
沈黙の後、セイリオスは村の人々へ向き直った。
「迷惑をかけてすみません。すぐに済みます」
丁寧に頭を下げる。誰も答えない。答えないことが礼儀だ。
彼は両手を広げ、掌を空に向ける。女神の紋がうっすらと浮かぶ。
祝福の光がこぼれ――なかった。
彼は光を呼ばない。呼べないのではなく、呼ばないことを選んだのだ。
「剣で答えると言ったのは、あなたです」
セイリオスは、ゆっくりと鞘に手をかける。
「でも今日は、できるだけ言葉で試みたい」
「やめろ。言葉は、世界に残る」
「だから、言います」
彼は目の前の男――灰を背負って立つ男――を真っ直ぐに見た。
「あなたが否定した“努力”は、きっと、僕が守ってきたものの一部です。
僕は、あなたを間違いだと言い切れない。
でも、あなたが切った鎖は、誰かの杖だったかもしれない」
杖。
杖は、足りない脚を補う。
しかし杖を持ったままでは、いつまでも走れない。
リアンは息をひとつ吐いた。
「杖を投げる自由を、俺は渡す。
握り続ける自由は――もう世界が与えただろ」
セイリオスの喉が動く。言葉が喉で渋滞し、ひとつずつ形を取りながら落ちる。
「あなたは努力を否定して、行為だけを残すと言った。
行為だけが残る世界は――人を、疲れさせないですか」
「疲れは、枕だ。
意味は、棺だ」
鍛冶師が小さく「うまいこと言いやがる」と呟き、砥石をなでた。
盲目の魔術師はわずかに笑い、歌い手は口の形でふっと息を作る。
ナユが影からもう半歩出て、今度は出たままだった。両手は固く握られている。
「……それでも、僕は努力を信じたい」
セイリオスは、最後にそう言って、鞘から剣を抜いた。
鋼が陽のない朝を拾う。
光は眩しくない。ただ、正しい。
「なら、俺はその灯を消す。灯りがあると、夜が見えない」
リアンは黒い刃に触れなかった。触れずに、右手の甲を見た。
黒い跡が脈打つ。
痛みは、今朝から少しだけ軽くなっている。代わりに、冷たさが増えた。
冷たさは残す。熱は燃やす。
今日は、残す日だ。
◇
風が止まる。灰が宙で迷子になり、戻る方向を見失う。
セイリオスが一歩踏み込み、剣先を地面に向ける。殺意はない。意志だけがある。
「リアンさん。あなたが世界から“努力”という言葉を奪っても、人はきっと続けます。
それでも――あなたは切るのですか」
「切る」
「なぜ」
「誰かがやらないと、誰もやらないから」
最初の一合は、まだ来ない。
代わりに、記憶が来る。
ミリアが額に触れた温度。
彼女の指。
あの夜の涙。泣けない彼の代わりに、世界が流した涙。
「……ミリアは、あなたの名前を今も呼んでいます」
セイリオスが言った。
リアンの肩が、ほんの少しだけ動いた。
「名前は時々、取りこぼす。
取りこぼしても、彼女が拾ってくれる」
「なら――」
「だから切れる。拾ってくれる人がいるから」
セイリオスは剣を持ち上げた。
鍛冶師が身を固くし、盲目の魔術師が風を止め、歌い手が唇を閉じる。
ナユが息を止めた。
刃はまだ、動かない。
その代わりに、言葉が最後に一度だけ動いた。
「努力は罪だ」
リアン。
「努力は美しい」
セイリオス。
美しさと罪が、同じ高さに並んだ。
並ぶとき、世界は一瞬だけ、均衡を覚える。
均衡は、次の瞬間に壊れるためにある。
◇
遠くで、あり得ない音がした。
鐘だ。鳴らないはずの鐘が、ひとつだけ、遅れて鳴った。
鍛冶師が顔を上げ、盲目の魔術師が空を向く。歌い手が口を開き、ナユが振り返る。
――そして、音は消えた。
「決着は、ここではつけない」
セイリオスが剣を下ろした。
その選択に、誰よりも驚いたのは彼自身かもしれない。
「ここは、人が生きている場所だ」
リアンは目を細める。
灰は、まだ降っている。
「逃げるのか」
「違う。
僕は……あなたと、もう一度言葉で決着をつけたい」
「言葉は残るぞ」
「残してください。
あなたが切った鎖の音も、残ったでしょう」
彼は鞘に剣を戻し、村人に向かって深く頭を下げた。
「騒がせてしまいました。
僕は今日、ここで戦いません。
ただ、ひとつだけ――」
セイリオスは木札の列に歩み寄り、未記入の札が外れていることに気づいた。
振り返る。リアンの懐に札がある。
「それは」
「俺の方で預かる」
「名のない死を、あなたが?」
「名のない死は、俺の仕事だ」
セイリオスは小さく笑った。
その笑いは、美しくも残酷でもない。
ただ、人間の側に置かれたものだった。
「……ありがとう」
リアンは答えない。答えないことが、いちばん正確な礼だと思った。
セイリオスは村の出口へ向かい、足を止める。
振り向かないまま、言葉だけを置く。
「僕は、神に問います。
――なぜ、あなたを選ばなかったのか」
「その問いは、正しい」
「答えは、要りません。
でも、問い続けます」
彼は歩み去った。白い背は灰に薄れ、角を曲がるとただの朝になった。
広場に、火の音が戻る。
鍛冶師が砥石に刃を乗せ、盲目の魔術師が風を整え、歌い手が唇でありがとうと言う。
ナユがリアンのそばへ来て、袖を引いた。
「ねえ。……戦わないの?」
「戦いは、次だ」
「いつ」
「今じゃない」
「どこで」
「――俺が届かない場所で」
ナユは一瞬、何かを言いかけて口を閉じた。
考える約束の印を、もう一度だけ頷きで置く。
リアンは火へ戻り、黒い剣に触れず、掌を温めた。
温度は正直だ。正直なものに触れると、息が整う。
息が整えば、狂気は遅れてやって来る。
灰は、まだ降っていた。
だが、火は消えなかった。
その日の夕刻、広場の片隅で盲目の魔術師が小さく言った。
「祈らないが、願う。
彼らが次に会う場所に、鐘が鳴りませんように」
夜のはじめに、鐘は鳴らなかった。
代わりに、遠いどこかで、石の音がした。
台座の割れる音に似ていて、誰にも似ていない音。
リアンは目を閉じ、未記入の木札の重さを指に確かめた。
名のない死は、彼の懐の中で、まだ名を待っていた。
火は小さく、しかし確かな拍子で燃え続ける。
拍子があれば、歌は戻る。
声がなくても、歌は戻る。
祈りがなくても、行為は残る。
そして――夜が来る。
夜は、次の戦いを連れてくる。
灰の空の下で、灯は揺れて、消えない。




