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【第五章】努力の否定 ― 灰の信仰(2)努力の墓場

夕刻の光は灰に濁って、村の輪郭を柔らかく曖昧にした。

 広場の火は、朝から一度も消えていないという。薪は少ない。だが火を絶やすと、夜に声が引きずられていく――この村の者は、そう信じていた。信じるという行為は、祈りよりも静かで、祈りよりも長持ちする。


 片腕の鍛冶師は、火の脇で砥石を撫で続けていた。

 盲目の魔術師は、炎の輪郭が崩れぬよう、わずかな風を送り続けていた。

 声を失った歌い手は、唇で歌を織り続けていた。

 三人の所作は小さく、だが切れ目がない。続けるという一点だけで世界と細くつながっている。


「水だ」


 鍛冶師が土器を差し出す。片腕で器を持つため、手の甲に無理の跡が走っている。

 リアンは受け取り、一口だけ飲んで返した。水には土の匂いがした。生き物の匂いではない。だが、喉が納得していく。


「旅の剣か」

「通りすがりの人間だ」

「剣のある人間か」

「……剣のない人間でいられたことは、あった」


 鍛冶師は「そうか」とだけ言い、砥石に刃を戻した。

 盲目の魔術師が微笑を声にしないまま、火の上の空気を整え直す。

 歌い手が口の形で問う――なぜ来たの――と。


 なぜ、か。

 リアンは火に手をかざし、掌を焦がすほどには近づけない位置で止めた。

 理由は何もない。理由は後から生まれる。物語の都合に応じて、過去は簡単に書き換えられる。

 もし理由が必要だというのなら――ここで終わらせるためだ。

 祈りの鎖を、ではない。努力という名の、もっとやさしい鎖を。


 火の温度に慣れ、目が夜の色を拾い始めた頃、広場の裏手から子らの笑い声がした。笑い声は、火のはしっこで跳ね、灰に触れて薄くなっていく。

 笑いながら、やせた少年が駆けてきた。背は低く、骨ばった肩に削れた木剣を担いでいる。木剣を握る指の節が固くなっているのが、薄闇の中でも分かる。


「――あの!」


 少年の声は自分でも驚くほどの高さにのぼり、途中で転んだ。

 言いたいことは一つしかない。だが、その一つにこの子は何度も息を吸い直す。


「あなたに、憧れた。ぼくも強くなりたい。毎日、鍬を手伝って、余った時間は剣を振ってる。努力すれば、ぼくだっていつか――」


 木剣が宙を描いて地に落ち、硬い音が鳴った。

 リアンが動いた記憶は、ない。

 ただ、少年の手から“努力”という名の棒が消えていた。


「やめろ」


 音の後で言葉が落ちる。少年の目が、灰色の夕暮れの中で丸くなる。

 鍛冶師が立ち上がろうとして、片腕の重さに座り直す。盲目の魔術師は顔だけでこちらを向き、歌い手の喉がかすかに震えた。声は出ない。声の代わりに、火の揺れが音を受け取る。


「その努力は、お前を救わない。お前が救われないぶん、誰かの“希望”が延命するだけだ」


 少年は唇を噛む。血が細く、口角に線を作る。

 それでも目は折れない。

「……何もしないよりは、いいよね?」


 世界は綺麗な牢を差し出す。“何もしないよりまし”という鎮静剤。

 リアンの右手の甲で黒い跡が熱を帯びる。背骨の裏をさざ波のように影が撫で、怒りが痛みに変換される。

 怒りは燃料だ。痛みは手綱だ。いま必要なのは後者だ。


「それが、いちばん残酷だ」


 言いながら、リアンは少年の木剣を拾い、柄を少年の掌に戻した。

 指が、竹の節のような固さで木を挟み直す。

「折るな。……ただ、美しいと思うな」


 少年は泣かなかった。

 泣かない方が強いと誰が決めた。

 泣けないのはリアンの代償のはずだったのに、いまこの子の涙を世界から奪ったのは自分だと、胸の奥で何かが軋んだ。


 焚き火が小さな音で跳ねる。

 火の粉が頬に触れ、熱だけが確かに伝わる。

 熱は正直だ。正直なものに触れると、人は一度だけ息を整えられる。


「坊。名前は」

「……ナユ」

「ナユ。お前が続けるのは、お前のためか。誰かのためか」

「どっちも」

「どっちもは、神の言葉だ」


 ナユの喉が鳴って、返事が飲み込まれた。

 鍛冶師が火ばさみで炭の位置を変える。盲目の魔術師が風の層を重ね、炎の輪郭を保つ。歌い手の肩が、歌の代わりに静かな拍子を刻む。


「努力が“綺麗に見える”うちは、誰かの血が見えない」


 リアンの視界に、あの夜の色が戻る。

 神殿の光、崩れる天井、女神像の腕が落ちる鈍音。

 優しさは刃にならない。だからこそ、心臓を刺す。

 セイリオスのまっすぐな眼差し。あの眼差しは、刃ではなく鏡だ。自分の醜い部分だけを明るく映す鏡。


 胸が重くなる前に、リアンは話題を切った。

「飯場はあるか」

 鍛冶師が顎で指す。

「裏手、共同釜だ。少ないが、薄い粥は皆の分、ある」


 共同釜の影は薄暗く、湯気は灰に溶けて目に見えない。

 木椀を受け取ると、粥の表面に小さな泡がひとつ弾けた。

 口に運ぶ。味は弱い。弱い味は、弱いものを傷つけない。


 粥を半分ほど胃に落とした頃、背後から小さな足音がした。

 ナユだ。両手に小さな布包みを持っている。

「これ……母ちゃんが、持ってけって」

 布を開くと、黒く固くなった干し肉が二片。

 リアンは包みを閉じて、そのまま少年の手に戻した。

「要らない」

「でも――」

「お前が食え」


 少年は首を振る。

「ぼくより、あなたが――」

「俺は、食べなくても死なない」


 嘘ではない。

 正確に言えば、死ねないだけだ。

 “いまはまだ”という条件つきで。


 火に戻ると、鍛冶師がちらりと視線を寄越す。

「坊の目を折るな、剣の人」

「折らない。ただ、あの目に祈りの色が混ざらないよう、削っただけだ」

「祈りが毒でも、祈りがなきゃ死ぬ夜もある」

「その夜は、俺が刈る」


 鍛冶師は何も言わず、砥石を戻した。

 盲目の魔術師が、火の向こうで顔を空へ向ける。

「祈らないが、願う。彼が刃を振るうたび、彼がまだ人でありますように」

 歌い手が、唇でありがとうと言った。声はないのに、ありがとうという言葉は、なぜか耳の内側で音になる。


 夜が深くなるにつれ、広場の周りの家々に灯りがともり、それがやがて疲れた目蓋のように落ちていく。

 火だけが残り、影だけが伸びる。

 灰は、眠らない。


 ふと、リアンは立ち上がった。

 火の縁から少し離れ、木札の並ぶ門柱の方へ歩く。

 歩幅が土に印をつけ、その印がすぐに崩れて形を失う。

 門柱に手を当てる。木は冷たい。冷たさは嘘をつかない。


 未記入の札が、風に揺れている。

 名のない死は、もっとも長く世界に居座る。名を与えられた死は、誰かの胸に降りるが、名のない死は空に残り続ける。夜空の曇りは、そういう死の集合だ。


 リアンは札の紐をほどき、懐にしまった。

 鍛冶師が背中に声を投げる。

「盗むのか」

「預かる」

「何のために」

「名のない死は、俺の方で引き受ける」


 鍛冶師は黙り、盲目の魔術師は微笑み、歌い手は肩を震わせた。

 ナユが駆け寄ってきて、リアンの手を掴んだ。

「ねえ。……努力は、ほんとにいらないの?」

「要らない」

「じゃあ、何がいるの」

「続けないことを選べる自由」

「続ける自由じゃなくて?」

「それは、もう世界がくれただろ」


 少年はしばらく黙っていた。

 やがて、こくりと一度だけ頷く。

 その頷きは、従う印ではない。考える約束の印だ。


 夜も更け、火が背丈を縮めたころ、旅の女が一人、広場へ迷い込んできた。

 肩に赤子。足取りは砂利の上でほどけ、何度も立ち止まる。

 鍛冶師が立ち上がろうとして片腕の重さに座り、盲目の魔術師が顔を上げ、歌い手が口の形で水と言う。

 リアンは女の前に出て、赤子の額に手をかざした。熱が指を刺す。

 黒い跡が疼く。影が囁く。


『救うか?』


「救いはない」


『なら、何をする』


「結果だけを残す」


 黒炎を呼ぶ。

 火ではない。色のない温度が、掌の内側でゆっくりと回転する。

 赤子の額の熱が、刃物で切り分けられるように沈む。

 女の肩から力が抜け、膝が落ちそうになったのをリアンが支える。

 赤子は小さく息を吐き、眠りに似た音を立てた。


「奇跡だ」

 女の唇が震える。

「違う。人間の我儘だ」


 我儘は、時々、世界を助ける。

 その代わり、我儘を選ぶ者は、いつか世界から締め出される。

 それでいい。外に立ってこそ、切れる鎖がある。


 女が礼を言い、広場の端に座った。赤子の寝息が、火の音に混じる。

 リアンは火へ戻り、鍛冶師の横に腰を下ろした。

 鍛冶師が、刃を砥石から外し、短く言う。

「お前は、神の代わりになるのか」

「ならない。神の終わりになるだけだ」

「終わった後は」

「知らない。知らなくていい」


 盲目の魔術師が、空へ向けた顔のままぽつりと言う。

「努力を否定した先に、何が残る」

「行為だけが残る。意味のない行為。

 意味がないから、誰のものでもなくなる。

 それが、やっと自由だ」


 歌い手の肩が、ゆっくり一度だけ上下する。

 その動きは、祈りではなく拍子だ。

 拍子があれば、歌は戻る。声がなくても、歌は戻る。


 深夜、風向きが変わった。

 灰が横に流れ、火の上に薄い膜を張る。

 盲目の魔術師が風を少しだけ強め、炎の輪郭を取り戻す。

 リアンは、木札の固さを懐で確かめ、目を閉じた。

 眠りのふちで、影がやさしすぎる声で尋ねる。


『まだ人でいたいか』


「……ああ」


『なら、痛みを忘れるな』


「忘れない」


『涙は』


「誰かに残していく」


 火が小さく応えたように、ぱち、と鳴った。

 朝までの距離は、いつもより少しだけ短く感じた。


 灰は、まだ降っていた。

 だが、火は消えなかった。

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