【第五章】努力の否定 ― 灰の信仰(1)灰の空の下で
焼けた神殿の煙が空の色を奪ってから三日が過ぎた。灰は雪のように、しかし雪ほどやさしくも冷たくもなく、ただ音を立てずに降り続けた。降り積もるのは冬の前触れではなく、祈りの燃え滓だ。歩けば、靴の裏で灰が小さくつぶれて、ため息のような感触だけが足裏に残る。
空は青でも黒でもない。晴れているのか曇っているのかすら、判断する気が失せるほど、世界は薄い。灰はどの祈りにも属さない。燃やし尽くされた祈りの残りの温度だけが、ただよっている。
リアンは風の向きに逆らって歩いた。背には黒い剣。鍔に触れる指が、以前よりも静かだと自分で思う。剣は軽くなったわけではない。むしろ、以前より重い。中に、言葉にならないものが沈んでいる。
風は生き物の匂いを運ばない。かわりに、焼けた石と、乾いた鉄と、古い血のにおいを運ぶ。あの夜、神殿の天井が崩れた時、空が一度だけ白くなって、それからすべての色が遠のいた。朝が来ても、昼が来ても、音の半分が地面の下に落ちてしまったみたいに、世界は静まり返っている。
丘を越えるたび、遠い畑で人が土を掘り返しているのが見えた。祈りの歌は途切れたが、代わりに「頑張ろう」という声が増えた。老人が若者に言う。「続ければ実る」。若者が笑ってうなずく。鍬の動きは不揃いでも、声は明るい。明るさは、刃の縁を鈍らせる。眩しさに背を向ければ刃はよく切れるが、誰のためにもならない刃ほど、手に負えないものはない。リアンは、視線を落として歩いた。
「……努力は、神が作った一番きれいな牢だ」
呟きは灰に吸われ、返事はどこからも来ない。代わりに、胸骨の裏側で影だけが動いた。内側から震えるような、小さな微笑。
『祈りの次に、世界が信じる箱。
“続ければ報われる”という、やさしい蓋。』
「やさしいから、壊せない」
『だから、お前がいる』
声は外から来ない。耳ではなく、骨で聞く声だ。自分のなかで長く黙っていた部分――“報われなかったリアン”が、ようやく言葉を覚えたのだと、彼は思う。
右手の甲の黒い跡が、薄い脈を打つ。焼けごてのような痛みはもう尖っていない。鈍い。それでも、確かに帰る場所としてそこにある。痛みが在るうちは、人はまだ人の側にいる。
道端に、雨で崩れた小さな祠があった。女神の顔は剥がれて、石の粒になって散らばっている。誰かが布をかけようとしたのか、風に裂かれた白布が祠の角に結ばれて、灰を濡らしていた。リアンは足を止め、結び目に触れた。
布は冷たい。冷たさに意味はないのに、人は意味を探す。祈りに似ている。祈りは、意味を与えるためにあるのだと思っていた。今は違う。祈りは、意味を強制するための仕組みに見える。
布を元に戻し、彼は歩き出す。背中の剣がわずかに鳴った。鳴ったのは金属ではない。胸の奥で、言葉にならないものがひとつ剥がれ落ちる音がした。
崩れた橋に出た。川は浅いが、流れは早い。橋脚だけが残って、板は上流のどこかへ消えたらしい。対岸には、枯れ草を束ねた柵と、低い屋根がいくつも連なっている。村だ。煙は薄い。炊事の匂いが届かない。
川に足を入れる。雪解け水に似た冷たさが、脛から膝へ、膝から腹へ上がってくる。身体のどこかで「生きている」という合図が点灯する。胸の奥で、影が笑った。
『冷たいな。だが冷たさは嘘をつかない』
「熱も嘘をつかないさ。あの夜の光は、どれも熱かった」
『熱は燃やす。冷たさは残す。
お前は――どちらで終わりたい?』
どちらでもいい、と思った。終わり方を選べるほど、世界は公平ではない。終わりはいつも、向こうからやって来る。だったらせめて、自分の足で立って迎える。それだけだ。
石を踏み、流れから上がる。靴の中で水が鳴った。水は冷たいはずなのに、足首から上は不思議に軽い。対岸の土は柔らかく、爪先が沈んで、薄い水気が音を吸い込んだ。
村の入口に立つと、門柱に吊るされた木札が風に鳴っているのが見えた。いくつも、いくつも。札には名が刻まれていた。誰かの父、母、息子、娘。読み方の分からない古い名もあれば、昨日刻まれたように新しい名もある。
札は祈りではない。記録だ。祈りは、神に向かって投げられる。記録は、人に向けて残される。
リアンは札の列の前で立ち止まった。木の表面に指を当てる。刃物の刻み跡は浅いが、指先にはっきりと触れる。名前は、多分、簡単には消えない。
「……頑張って、死んだ人の村」
口にして、自分でも驚くほど自然な響きだった。彼は誰かに説明を求めたかったわけではない。ただ、言葉の形を世界に置きたかった。言葉は、置かなければ勝手に祈りに変わる。祈りになってしまえば、世界の側が勝手に意味を決める。
札の最後尾に、まだ刻まれていない真新しい板が一枚結わえつけてある。未記入の名札。名は、これから増えるのだ。増え続けるのだ。努力しても、しなくても。
村の道は狭く、曲がり角のたびに陰影が深くなる。戸口の前に、濡れた箒。干し網。割れた鉢。人の気配はあるのに、人の声が小さい。灰のせいで喉を守っているのかもしれない。
広場に出ると、片隅で火が焚かれていた。火は薪を食い、煙を吐き、灰になる。火の前に、片腕の鍛冶師が座っている。膝の上に砥石。短い刃物が石を上で泳ぎ、そのたびに石の粉が光る。
その横で、盲目の魔術師が掌を火にかざし、微細な風を生んでいる。炎の輪郭が崩れない程度の、風の調整。声を失った歌い手は、火の向こう側で口の形だけで歌をつむいでいた。喉は振動していない。音は出ていない。けれど、火の向こうで口の形が動くと、不思議と胸の中で音が生まれる。
「通りすがりか」
鍛冶師が言った。砥石の上の刃物が止まり、片腕で石の粉を払う。
「水、あるよ」
盲目の魔術師が続ける。顔はこちらを向かない。だが、顔をこちらへ向けようとする気配がある。
歌い手が唇で、ようこそ、と言った。声はないが、口の形は優しかった。
「火に当たれ。灰が、骨に入る」
鍛冶師の言葉に、リアンは火の縁に腰を下ろした。指をかざす。温度は正直だ。あたたかい。あたたかさに意味はない。だが、人間は意味のない温度のために、想像以上に生きられる。
火の上で煙がよじれて、空へほどけていく。煙は空へ溶ける前に、いくつかの形を作る。枯れ木。鍬。剣。青いマント。父の背。母の手。ミリアの指。セイリオスの瞳。
形が形のまま残れば、世界はきっと分かりやすかった。だが煙は、すべてを途中でやめてしまう。途中でやめてしまえるのは、強さだ。
リアンは問いかけるように、しかし相手を選ばずに言った。
「努力で、何を残した?」
三人は目を伏せた。火がぱちりと鳴った。鍛冶師が、先に口を開く。
「生き延びた。それで充分だろ」
盲目の魔術師が、続ける。
「誰かに渡せる明日が、一日ぶん、増えた」
歌い手が、口の形で音を作る。
「それが歌だよ」
微笑みが遅れて喉に浮かんだ。遅れてくる微笑みは壊れやすい。壊れやすいものほど、長く残る。
火がひときわ高くなったとき、背中で細い影が剣を構える気配がした。振り返ると、痩せた少年が立っていた。手には磨き減った木剣。震える指。
「あなたに、憧れた。ぼくも、強くなりたい。努力すれば、いつか――」
木剣が宙を舞い、土に落ちた。リアンは自分が動いたかを覚えていない。ただ、少年の手から“努力”という名の棒が消えていた。
「やめろ」
少年の目が見開かれる。鍛冶師が立ち上がろうとして、片腕の重さに座り直す。盲目の魔術師は顔だけをリアンへ向ける。歌い手の喉が、音の代わりに震えた空気を吐く。
「その努力は、お前を救わない。お前が救われないぶん、誰かの“希望”が延命するだけだ」
沈黙。少年は唇を噛み、血をにじませる。それでも、目は折れない。
「……何もしないよりは、いいよね?」
世界は、またきれいな牢を差し出す。**“何もしないよりまし”**という鎮静剤。黒い鞘に手を置く。背骨の内側で影がざわめき、怒りが痛みに変わる。
「それが、いちばん残酷だ」
焚き火が揺れる。リアンは落ちた木剣を拾い、少年の手に戻した。
「折るな。……ただ、美しいと思うな」
少年は泣かなかった。泣けないのはリアンの代償のはずだった。自分以外の誰かの涙を、世界から奪ってしまった気がして、胸が重くなる。
煙が目にしみた。煙のせいにして、彼は目を細めた。指先に残る木剣の感触は、子どもの骨の細さに似ている。細い骨は折れやすい。折れやすいから、守れる。守れなかった夜から、世界は何も学ばない。
火の縁でしばらく黙っていると、盲目の魔術師がわずかに指を組んで、空の方角へ顔を向けた。
「祈らないが、願う。彼が刃を振るうたび、彼がまだ人でありますように」
炎は応えず、ただ揺れる。揺れながら、心臓の拍動を真似る。拍動は命だ。命は、意味の前にある。
陽が傾くにつれて、村の影は長くなる。影が重なり合い、広場の中心で黒い色が濃くなる。その中心に、リアンは座っていた。灰はいつの間にか肩から髪へ移動し、黒い糸のようにひと筋だけ光を撥ね返した。
影が胸の裏で囁く。
『お前は、灯りを嫌っているのではない。灯りを愛しているから、灯りに裏切られた夜を憎むのだ』
「わかっている」
『なら、どうする』
「灯りを消す。夜を見せる。夜の中でも歩けると、誰かが気づくまで」
『それは救いか、破壊か』
「名前は、どちらでもいい」
火がはぜて、火の粉が頬に触れた。熱い。熱いものに触れると、ちゃんと痛い。痛いのは、ありがたい。痛みは人の側の証拠だ。
リアンは立ち上がる。灰が肩から落ち、地面に淡い輪を作る。輪はすぐに崩れ、ただの汚れになる。輪が祈りに変わる前に、靴で踏みつけた。
夜が降りる。
灰はまだ、降っていた。




