第四章 祈りの終わりに【後編】
第二部 神殿への反逆 (人の光)
リュゼンの鐘は、祝祭のためによく鳴るようになった。
癒やしの列は短くなり、孤児院の鍋はよく満ち、女神の紋は子らの絵に描かれる。
光の治安が街に根を張ったのだ。
リアンは夜に入った。
もう彼は「見つからない」ことに頼らない。
見つかればいい。見られればいい。これは見せるための行いだから。
神殿前の石段に立つと、人の気配が揺れた。
衛兵が手を上げる。
「止まれ!」
リアンは剣に触れなかった。
かわりに、右手を見せた。黒い跡。人間の形。
「通してくれ。俺は祈りを捧げに来た」
衛兵の目が揺れ、一瞬、彼は道を開けた。
その一瞬で充分だった。
人はまだ、祈りという言葉に道を空ける。
神殿の扉を押し開ける。
光の香が鼻腔を満たし、耳に見えない合唱が刺さる。
黄金の女神像は慈悲の顔で、彼を見なかった。
正面に少年が立つ。
光の側の少年――セイリオス。
あの優しさを、リアンはもう“敵意”と混同しない。
敵意よりも残酷なものがあると、知ってしまった。
「リアンさん」
「その呼び方は、ありがたい」
名前が胸の底に戻ってくる。ミリア以外の声で。
少しだけ、苦い。
「僕には、あなたの痛みが分からない。でも――」
「それでいい。分からないまま、君は君でいろ」
「なら、どうしてここに」
「墓を立てに来た。俺自身の、祈りの墓だ」
セイリオスの瞳が曇る。
「壊すために、来たのですね」
「違う。終わらせるためだ。俺の中で、祈りが終わらない限り、俺は前へ進めない」
足音。
白い裾が駆け寄る。
ミリアだった。
灯りに濡れた瞳は、何度も泣いた跡を隠そうともしない。
「リアン。……帰ろう。ここじゃなくていい。祈りが要らないなら、祈らない場所で生きよう」
「ミリア。君は、まだ神を信じるか」
「――うん。だけど、神よりもあなたを信じる」
言葉が、胸の奥で音を立てて割れた。
影が静かに軋み、右手の跡が熱を持つ。
「なら、見ていろ。これが俺の祈りの終わり方だ」
リアンは剣を抜く。
黒い縁が震え、空気が薄くなる。
彼は女神像に刃を向けない。
向けたのは――祭壇の土台だ。
祈りを支え、祈りを重ね、祈りを固定してきた石。
そこへ、ただ一歩分の全力で、刃を置く。
置くだけ。振らない。叩かない。
鋼が石に触れた瞬間、静かな音が鳴る。
祈りは、支えから崩れる。
台座がわずかに歪み、女神像が自重で傾いた。
光が揺れ、合唱が一拍遅れる。
やがて像の腕が外れ、鈍い音で床に落ちる。
人々の悲鳴。
セイリオスが一歩踏み出す。
「やめてください」
「やめない。俺は今日、祈りをやめに来た」
セイリオスの掌に光が咲き、祝福の紋が浮かぶ。
その光は敵意ではない。庇護だ。
リアンは剣をその光に重ねた。
焼けるような痛み。
右手の跡が焦げ、匂いが立つ。
代償が、ちゃんとそこにある。
彼は安堵した。
力は、痛みなしに正しくは存在しない。
「セイリオス。君が救うたび、誰かの祈りは未然に終わる。
それは善だ。だが――俺には地獄だ」
「僕はあなたを救いたい」
「俺は救われない。救われたいのは、俺の中の闇だから。
外からの光じゃ、届かない」
ミリアが間に割って入る。
震える手でリアンの剣を押し下げ、彼の胸に額をつける。
「救いは、外からだけじゃない。私を置いていくのは、救いを捨てることだよ」
リアンの手が、自然に彼女の背に回った。
温度。鼓動。体の小さな震え。
――鎖だ、と彼は思う。人の側へ引き戻す鎖。
鎖は、切るためにあるのではない。
背負って歩くためにある。
「ミリア。俺が戻れなくなったら、君が俺の名を呼んでくれ」
「何度でも呼ぶ。あなたがもう自分を“リアン”だと忘れても」
「もう少しだけ覚えているうちに、行かせてくれ」
彼女は目を閉じ、小さく頷いた。
涙は落ちたが、声は折れなかった。
セイリオスが踏み込む。
リアンは剣をひと振り――空気だけを斬る。
風が渦を巻き、祈りの香が散る。
光と影がすれ違い、神殿の彩色が色を失っていく。
「リアンさん」
「何だ」
「あなたが神を憎むなら、僕は神に問う。
――なぜ、あなたを選ばなかったのか」
リアンはわずかに笑った。
「それを言える君がいるなら、この世界はまだ終わらない」
彼は踵を返す。
背に女神像の崩れる音。
祈りの墓が、静かに完成した。
外に出ると、夜風が熱を奪っていった。
右手は焼けるように痛む。
痛みは鎖。
彼はそれを握り直し、空に向けて短く言う。
「俺は、神を殺せるほど強くなる。
――だがその前に、人であり続ける」
ミリアが後ろで泣いている気配がする。
セイリオスの祈りの声が遠くで混じる。
どちらも、彼の歩幅から消えない位置にあった。
夜が、ひとつ深くなった。
“祈り”の灯が減り、“意志”の灯が増えた。
誰も見ていない闇路で、ひとりの男の影だけが人間の形を保ち続けていた。




