表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

第四章 祈りの終わりに【前編】

――堕ちゆく者は、なお人でありたい――


第一部 沈黙の修行編 (人の闇)

王都を出て、幾つ目の峠を越えただろう。

 風は痩せ、木々は声をなくし、山影は長い指のように大地を掴んで離さない。

 崩れかけた小さな礼拝堂があった。かつて祈りを宿した石は、雨に磨かれ、冬に割れ、今では誰の膝も受けない冷たい床になっている。


 リアンはそこで暮らし始めた。

 暮らす――といっても、食べ、眠り、そして沈黙を聞くだけだ。

 夜は焚き火もつけない。火は祈りに似ていて、温かいと同時に「誰かが見ている」という錯覚を生むからだ。


 最初の一週間、彼は何もしなかった。

 剣も振らない。叫ばない。泣かない。

 ただ、胸の内で砕けた何かが沈殿し、底に溜まるのを待った。


 二週間目の夜、ようやく彼は口を開いた。

「……聞こえるか、俺」

 それは神にではない。自分自身に向けた声だった。


 礼拝堂の奥、砕けた祭壇の前に座る。

 手の中で、父の鍬の柄から削り出した古い木片が、軽く鳴った。

 その音に、別の声が重なる。


> 『ようやく、呼んだな』




 聞こえた。

 外からではない。耳の奥からではない。

 胸骨の裏、言葉にしなかった悔しさの塊がほどけるように、声になった。


「俺は、誰も憎みたくなかった」


> 『嘘だ。あの光を見た夜、お前は世界を殴りたいと思った』




「……ああ」


> 『努力が報われない世界を、だ』




 沈黙が頷いた。

 リアンは自分の掌を見た。

 固くなった豆の線。剣柄の彫み。剥けた皮膚。

 それらは全部、祈りの痕跡だったのだと、いまなら分かる。


「祈りをやめる。だが、その代わりに何を持つ?」


> 『祈りの形は二つしかない。

ひとつは委ねる祈り。もうひとつは奪う祈り。』




「奪う――祈り?」


> 『報いを自分で作ること。それが、お前の祈りの反転だ』




 リアンは立ち上がり、砕けた祭壇に右手を置いた。

 冷たい石。そこに確かにあった誰かの祈りの温度は、もうない。

 自分の手を噛み、血を落とす。

 ぽた、ぽた、と生きている証拠が床に点を刻む。


「儀式じみた真似は嫌いだ」


> 『なら、名前を呼べ。お前が一番憎んでいる名前を』




 名を呼ぶ。

 世界がわずかに軋む。


> 『それは神の名か? 転生者の名か?』

「違う。――俺の名だ」




 リアン。

 努力という名の祈りを背負い、報われないたびに自分を責め続けた、少年の名。

 その名を、彼は鋭い刃のように吐いた。血よりも赤い声で。


> 『捨てるのか、その名を』

「捨てない。分ける」

『分ける?』




「俺の中の“報われなかったリアン”と、“まだ立とうとするリアン”を、切り分ける。

 闇は、後者に従え。前者は――俺が抱く」


 床の血が線になり、裂け目のように礼拝堂を走った。

 空気の温度が一度落ち、すぐに戻る。

 暗闇が滲む。

 それは外から来た神秘ではない。内側から吹き出した影だった。


> 『それが、お前の力だ。名も形も、ぜんぶ人間の温度でできている』

「代償は?」

『人が人であるために必要なもの――痛みを、もう軽く受け取れなくなる。

つまり、泣けなくなる』




 リアンは笑った。

「泣く時間は、とうに剣に払った」


 影が右腕に沿って這い、皮膚の下へ潜った。

 焼きごてのような疼き。だが、懐かしさがあった。

 あの夜、父の背中を見送ったとき、胸に開いた穴と同じ形の疼き。


 やがて、右手の甲に黒い紋が浮かび上がる。

 輪でも、十字でもない。

 鍬と剣と涙の線が絡み合った、人の手の跡に見えた。


「……これに名は要らない。俺の内側の形だから」


> 『よい。名を与えない力は、持ち主だけが扱える』




 剣を抜く。

 刃は金属の冷たさを保ったまま、縁だけが薄く黒く滲んだ。

 炎ではない。闇ではない。

 未練の色だ。


 礼拝堂を出ると、夜の山が呼吸していた。

 彼は一合だけ振る。

 何も斬れない。だが、世界の密度が、その一歩ぶんだけ自分寄りに傾くのを感じた。


 振り返らない。

 祈りの背に、別れを告げる。


「俺はまだ、人でいたい。だから――神を許さない」


 その宣言は風になり、森に消えた。

 夜が、彼の歩幅で深くなる。



---


 数日が過ぎた。

 リアンは意図的に“人の場所”に降りなかった。

 飢え、渇き、眠気――身体の叫びは、いまの彼を人間の側に繋ぎ止める鎖だったからだ。

 鎖は重い方がいい。堕ちていくとき、最後に引き戻してくれるかもしれないから。


 ある夜、彼はふと、自分の名を確かめるように口にした。

「……リアン」

 音は出た。だが、胸の奥でわずかに空振りした。

 影が静かに告げる。


> 『代償は始まっている。お前は自分の名前を、時々取りこぼすだろう』

「構わない。呼んでくれる声が、ひとつあればいい」




 彼は誰かの名を思い出そうとした。白いローブ。軽い指。温度。

 口が、自然に形を作る。


「……ミリア」


 その名だけは、かろうじて確かに、胸骨に刻みついていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ