第四章 祈りの終わりに【前編】
――堕ちゆく者は、なお人でありたい――
第一部 沈黙の修行編 (人の闇)
王都を出て、幾つ目の峠を越えただろう。
風は痩せ、木々は声をなくし、山影は長い指のように大地を掴んで離さない。
崩れかけた小さな礼拝堂があった。かつて祈りを宿した石は、雨に磨かれ、冬に割れ、今では誰の膝も受けない冷たい床になっている。
リアンはそこで暮らし始めた。
暮らす――といっても、食べ、眠り、そして沈黙を聞くだけだ。
夜は焚き火もつけない。火は祈りに似ていて、温かいと同時に「誰かが見ている」という錯覚を生むからだ。
最初の一週間、彼は何もしなかった。
剣も振らない。叫ばない。泣かない。
ただ、胸の内で砕けた何かが沈殿し、底に溜まるのを待った。
二週間目の夜、ようやく彼は口を開いた。
「……聞こえるか、俺」
それは神にではない。自分自身に向けた声だった。
礼拝堂の奥、砕けた祭壇の前に座る。
手の中で、父の鍬の柄から削り出した古い木片が、軽く鳴った。
その音に、別の声が重なる。
> 『ようやく、呼んだな』
聞こえた。
外からではない。耳の奥からではない。
胸骨の裏、言葉にしなかった悔しさの塊がほどけるように、声になった。
「俺は、誰も憎みたくなかった」
> 『嘘だ。あの光を見た夜、お前は世界を殴りたいと思った』
「……ああ」
> 『努力が報われない世界を、だ』
沈黙が頷いた。
リアンは自分の掌を見た。
固くなった豆の線。剣柄の彫み。剥けた皮膚。
それらは全部、祈りの痕跡だったのだと、いまなら分かる。
「祈りをやめる。だが、その代わりに何を持つ?」
> 『祈りの形は二つしかない。
ひとつは委ねる祈り。もうひとつは奪う祈り。』
「奪う――祈り?」
> 『報いを自分で作ること。それが、お前の祈りの反転だ』
リアンは立ち上がり、砕けた祭壇に右手を置いた。
冷たい石。そこに確かにあった誰かの祈りの温度は、もうない。
自分の手を噛み、血を落とす。
ぽた、ぽた、と生きている証拠が床に点を刻む。
「儀式じみた真似は嫌いだ」
> 『なら、名前を呼べ。お前が一番憎んでいる名前を』
名を呼ぶ。
世界がわずかに軋む。
> 『それは神の名か? 転生者の名か?』
「違う。――俺の名だ」
リアン。
努力という名の祈りを背負い、報われないたびに自分を責め続けた、少年の名。
その名を、彼は鋭い刃のように吐いた。血よりも赤い声で。
> 『捨てるのか、その名を』
「捨てない。分ける」
『分ける?』
「俺の中の“報われなかったリアン”と、“まだ立とうとするリアン”を、切り分ける。
闇は、後者に従え。前者は――俺が抱く」
床の血が線になり、裂け目のように礼拝堂を走った。
空気の温度が一度落ち、すぐに戻る。
暗闇が滲む。
それは外から来た神秘ではない。内側から吹き出した影だった。
> 『それが、お前の力だ。名も形も、ぜんぶ人間の温度でできている』
「代償は?」
『人が人であるために必要なもの――痛みを、もう軽く受け取れなくなる。
つまり、泣けなくなる』
リアンは笑った。
「泣く時間は、とうに剣に払った」
影が右腕に沿って這い、皮膚の下へ潜った。
焼きごてのような疼き。だが、懐かしさがあった。
あの夜、父の背中を見送ったとき、胸に開いた穴と同じ形の疼き。
やがて、右手の甲に黒い紋が浮かび上がる。
輪でも、十字でもない。
鍬と剣と涙の線が絡み合った、人の手の跡に見えた。
「……これに名は要らない。俺の内側の形だから」
> 『よい。名を与えない力は、持ち主だけが扱える』
剣を抜く。
刃は金属の冷たさを保ったまま、縁だけが薄く黒く滲んだ。
炎ではない。闇ではない。
未練の色だ。
礼拝堂を出ると、夜の山が呼吸していた。
彼は一合だけ振る。
何も斬れない。だが、世界の密度が、その一歩ぶんだけ自分寄りに傾くのを感じた。
振り返らない。
祈りの背に、別れを告げる。
「俺はまだ、人でいたい。だから――神を許さない」
その宣言は風になり、森に消えた。
夜が、彼の歩幅で深くなる。
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数日が過ぎた。
リアンは意図的に“人の場所”に降りなかった。
飢え、渇き、眠気――身体の叫びは、いまの彼を人間の側に繋ぎ止める鎖だったからだ。
鎖は重い方がいい。堕ちていくとき、最後に引き戻してくれるかもしれないから。
ある夜、彼はふと、自分の名を確かめるように口にした。
「……リアン」
音は出た。だが、胸の奥でわずかに空振りした。
影が静かに告げる。
> 『代償は始まっている。お前は自分の名前を、時々取りこぼすだろう』
「構わない。呼んでくれる声が、ひとつあればいい」
彼は誰かの名を思い出そうとした。白いローブ。軽い指。温度。
口が、自然に形を作る。
「……ミリア」
その名だけは、かろうじて確かに、胸骨に刻みついていた。




