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第一章 憧憬の剣

この村には、外の世界の話をする者はいなかった。

谷間に隠れるようにある〈マルシェ〉の村は、朝も夜も静かで、風の音と牛の鳴き声だけが日々を刻んでいた。

季節が巡っても景色は変わらず、ここで生まれた者は、ここで土に還る。

それが当たり前で、疑う者もいなかった。


リアンもまた、そのひとりだった。

まだ十四になるかならぬかの年。

父の畑を手伝い、母の炊いたスープをすすり、村の子どもたちと泥まみれになって遊ぶ。

そんな日々を過ごしていた。


だが、胸の奥のどこかで、いつも小さなざわめきがあった。

村の外――丘の向こうの遠い街。

旅人たちがときおり語る“騎士”や“王国”の話を聞くたび、心臓が強く跳ねた。


「リアン、手を止めないで」

母の声に我に返り、鍬を握り直す。

母は柔らかく笑いながらも、目は鋭い。

父は寡黙で、いつも空を見ていた。

彼の背中には、かつて兵士だった頃の名残がある。

けれど戦の話をすることは、決してなかった。


「父さん、昔は戦ってたんだよね」

夕食の席で、リアンは何気なく尋ねた。

父はしばらく黙っていたが、やがて低く答える。

「戦うことより、守ることのほうが難しいんだ。お前には……そんなこと、してほしくない」

「どうして?」

「守るものがある者ほど、壊れる」


その言葉の意味を、リアンはまだ理解できなかった。

ただ、父の手が鍬よりも剣を握るにふさわしいほど硬く、重いことだけは覚えている。


夜。

村の灯がひとつ、またひとつと消えていく。

焚き火のそばで、リアンはぼんやりと空を見上げていた。

星が近い。

手を伸ばせば届きそうで、けれど決して届かない。


――この村の外に行ってみたい。

――騎士って、本当に人を守れるのかな。


そんなことを思っても、口には出さなかった。

夢を語る者は笑われる。

この村では、夢は生きる邪魔になるからだ。


焚き火の火が小さく弾け、風が草を揺らす。

リアンは手のひらにできた豆を見つめながら、静かに呟いた。


「……僕も、いつか……」


その続きを言う前に、風が吹き抜けた。

冷たい夜気が肌を刺し、遠くで犬の吠える声が響く。

翌朝、霧の向こうで何かが鳴いた。

その日が、静かな村の日々の終わりになることを、誰も知らなかった。



---


その夜は、いつもより風が冷たかった。

谷を渡る風が、どこか遠くから嗚咽のような音を運んでくる。

母は焚き火の火を見つめ、静かに言った。

「今日は、外に出ないほうがいいわ。獣たちの声が違う」

父は眉をひそめ、立ち上がった。

「村の柵を見てくる。リアンは母さんを頼むんだ」


リアンはこくりと頷いた。

けれど、胸の奥がざわついて仕方がなかった。

そのざわめきは、次の瞬間、現実の悲鳴に変わった。


「魔物だ――! 魔物が出たぞ!」


誰かの叫びとともに、地面が揺れた。

牛の鳴き声が裂け、木柵が砕ける音が夜を引き裂く。

炎が上がり、血と煙の匂いが押し寄せた。


父が外から駆け込んでくる。

顔に返り血を浴び、手には古びた鍬を握っていた。

「リアン、逃げろ! 母さんを連れて森へ!」

「父さんは!?」

「行け!」


その声に押され、リアンは母の手を引いて走った。

だが、村の出口はすでに魔物の群れに塞がれていた。

黒い体毛、赤い目、獣とも人ともつかぬ影。

牙が光り、叫びが夜を裂く。


父が叫びながら飛び出した。

鍬を振り抜き、一体の首を叩き折る。

しかし次の瞬間、別の影が背後から襲いかかる。


「父さん――!」

叫んだ時には、すでに血が舞っていた。

父の体が大きくのけぞり、母の前に倒れ込む。

それでも、父は動いた。

地を這いながら母を庇い、その背で刃を受け止めた。


「……走れ」

掠れた声が震える。

「リアン……お前は……守れ……」


その手が動かなくなった瞬間、

母が泣き叫びながらリアンを抱きしめた。

「見ないで、リアン……お願い……」

だが、魔物は容赦しなかった。

血の匂いに惹かれ、群れが近づいてくる。


――終わる。


リアンは息を詰めた。

涙も声も出ない。

母が腕を広げ、最後の盾となろうとした、その時。


音が消えた。

空気が裂けたように、ひとすじの光が走る。


白銀の閃光が夜を割いた。

一瞬で三つの影が斬り裂かれ、血の霧が舞う。


そこに立っていたのは、一人の男だった。

月光を浴びて輝く鎧。

背に青いマントをはためかせ、燃えるような眼で闇を睨んでいた。


「下がっていろ」


その声に、世界が静止した。

剣が光り、炎の中を切り裂くたびに、魔物たちは灰のように崩れていく。

リアンは息をすることすら忘れて、その背中を見つめていた。


――これが、“強さ”なのか。


父が命を賭けて守りたかったもの。

母が震えながらも信じていたもの。

それが、目の前で形を持っていた。


やがて、すべての音が消えた。

残ったのは、冷たい風と、月明かりに照らされた父の亡骸だけ。


騎士は剣を収め、静かにリアンへと歩み寄った。

「怖かったろう。だが、よく守った」

リアンは言葉を失い、ただ頷いた。

母は涙をこぼし、空を見上げた。


夜明けが、村を照らし始めていた。

焼けた土の匂いとともに、リアンの心に何かが刻まれた。



---


陽が昇りきるころ、村は静まり返っていた。

人々は瓦礫の中で、死者を弔い、失われた家を見つめていた。

リアンは、まだ温もりの残る父の手を握りしめたまま、動かなかった。


騎士は背後に立ち、静かに言葉を落とした。

「守るというのは、戦うことじゃない。心を折らないことだ」


リアンはその言葉の意味を理解できなかった。

けれど、胸の奥に焼きついた光景だけは、決して忘れなかった。


昼を過ぎ、空が朱に染まるころ。

リアンは瓦礫の中から一本の剣を見つけた。

錆びつき、刃こぼれだらけのそれは、父が最後に振るった鍬の代わりの剣だった。


彼はそれを拾い、地面に突き立て、両手を重ねた。


「僕も……いつか、守れるようになりたい」


血に濡れた大地の上で、少年の声が小さく響いた。

それは祈りであり、誓いであり、未来への呪いだった。


空は高く、風は冷たかった。

父が愛した村は、もう二度と元には戻らない。

けれど、その日、少年の中に生まれた炎は――誰にも消せなかった。


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