番外編:「選ばれなかった男の、それから」(アラン・ベレスタイン視点)
人生の転落なんて、案外あっけないものだ。
自分でも驚くほど、冷静だった。
ミレイユが俺を見上げて、きっぱりとこう言ったあの日のことを思い出す。
「私は、あなたの過去じゃない。あなたが失くしたものでもないの」
そう言って、彼女は――レオンの方を向いた。
もう、俺を見ることはなかった。
それが、俺が彼女を失った瞬間だった。
「アラン様、お食事の支度が――」
「いらん。下がれ」
使用人が何か言いかけたが、手で制す。
食欲なんて、あるわけがない。
見慣れた自室。
それなのに、妙に空虚だった。
昔はここで、ミレイユからの手紙を読んでいた。
優しい筆跡。丁寧すぎるくらいの言葉遣い。
あの頃の俺は、それを、つまらないと思っていた。
――もっと、刺激的な相手がいい。
――俺にふさわしいのは、社交界の中心に立てる女だ。
そんな驕った思いが、彼女との縁を手放させた。
愚かだったと思う。今になってようやく。
彼女が俺の隣にいたとき、俺は何一つ気づかなかった。
その沈黙が、どれだけ強さを持っていたか。
その微笑みが、どれだけ愛を孕んでいたか。
リシェル・サラズとの婚約も、結局は解消になった。
あの女は俺に惹かれていたのではなく、
俺の過去――つまりミレイユとの関係にしか興味がなかったのだろう。
「あなた、本当に彼女を忘れてると思ってる?」
そう言ってリシェルは笑った。
あれは、見下しでも嘲笑でもなく――
まるで、同類を見る目だった。
完璧を演じ、誰かの目ばかりを気にして、
本当に大切なものに気づけない人間の、悲しい共犯者としての視線。
ああ、俺は本当に、誰も愛せていなかったんだな。
「ベレスタイン様、お客様が……」
「誰だ」
「クラウゼ伯爵からの使者です」
その名を聞いた瞬間、少しだけ胸がざわついた。
けれど、今の俺に期待できるような関係など、何もない。
案の定、それは――妹のリリィへの縁談の打診だった。
「……ふん。皮肉なもんだな」
かつて婚約していた令嬢の、妹と縁談か。
けれど俺は、もう選ぶ側ではない。
今の俺に、選べるほどの価値はない。
ただ、静かに受け入れるしかない。
夜。
誰もいない庭に出て、星空を仰ぐ。
俺は、何を手に入れて、何を失った?
地位も名誉も、まだある。
けれど、それがどうした。
隣に、心から笑い合える相手がいないなら、何の意味がある。
――思い出すのは、あの春の日。
彼女が花を編んで、俺に差し出したときのこと。
「よろしければ、どうぞ。……貴方の勝負の無事を、お祈りします」
俺はそのとき、礼だけ言って受け取った。
それを、彼女の指先から、何かが伝わる気がしたと、少しでも思っていたら――
何か、変わっていただろうか。
今さら、答えなんて出ない。
でも、ひとつだけ分かったことがある。
俺は、ようやく負けを認めることができた。
それは、敗北じゃない。
ようやく、自分の愚かさを受け入れたということだ。
そこから始める。
地位や見栄ではなく、
心を通わせる誰かの隣に立てる男になろう。
そう決めた、静かな夜だった。
それでも、時々ふと夢に見る。
春の庭で、花を編む少女の面影を。
彼女はもう、俺の過去にいるだけの人。
でも――その背を思い出すたびに、俺は胸を張って歩きたいと思う。
あのときの俺より、少しでもましな人間になって。




