過去の痛みと、今の静寂(前編)
婚約破棄から数ヶ月が過ぎた。
ミレイユ・クラウゼは、静かな日々を過ごしていた。
あれからすっかりと、華やかな社交界の面影は消え、今では実家の離れに引きこもるような生活を送っている。家族とも顔を合わせることが少なくなり、外の世界と完全に隔絶されたような日々が続いていた。彼女の心の中には、痛みとともに、少しずつではあるが静寂が広がっていた。
かつては、貴族の婚約者を持つことが当たり前だと思っていた。舞踏会に出て、ドレスをまとい、誰もが羨むような存在として生きる未来。しかし、アラン・ベレスタインが言った一言でその未来はすぐに崩れ去った。
「君のような地味な令嬢より、もっと相応しい相手がいる」
その言葉がどれほど彼女を傷つけ、彼女の世界を変えてしまったことだろう。自分がどれだけ力を尽くしても、見下される存在でしかなかったのかと、心の奥で繰り返し問い続けた。
婚約破棄されたその瞬間、ミレイユは決心した。社交界から距離を置き、静かな生活を送ること。それが最も自分に合った選択だと。これまでの自分を、無理に演じる必要はないと。
そんな彼女を支えてくれたのは、隣家に住む幼なじみ、レオン・ヴァルトだった。彼は騎士団に所属しており、王国を守るために日々忙しくしているはずだった。しかし、ミレイユのもとには毎日のように顔を出し、何も言わずにただそばにいてくれる。それがどれほど心強かったか、言葉では表現できない。
「……ありがとう」
窓の外を見つめながら、ミレイユはぼんやりと呟いた。庭の花々が色とりどりに咲き誇り、その中にひとり静かに佇む自分を少しずつ受け入れられるようになってきた。彼女は、こんな日々の中で、ほんの少しだけ前に進んでいると感じていた。
その時、玄関の扉が静かに開く音がした。
「おはよう、ミレイユ」
いつものように、レオンの声が静かな空気を切り裂く。彼の声を聞くだけで、心が落ち着く。無理に明るく振舞う必要はない。ただ、レオンがいるだけで、何となく安心できるのだ。
レオンは騎士団の制服を着たまま、リビングに入ってきた。青い目が少しばかり疲れているようにも見えるが、それでもいつもの優しい微笑みを浮かべている。
「おはよう、レオン。今日も元気そうね」
「元気だよ。ただ……」
レオンは少し言葉を詰まらせた。彼の素直さに、ミレイユはふっと笑みを浮かべる。
「それ、また言わないで。あなたのことだから、また無理してるんでしょう?」
「そうかもしれないけど……」
レオンは照れたように頭をかきながら、言葉を続ける。
「無理してないって言ったら、君は心配しないからさ」
その言葉に、ミレイユは思わず吹き出しそうになる。その素直さが、彼の魅力だと改めて感じた。
「……ありがとう。レオン。今日は、少し庭に出てみようかな」
「それはいいね。じゃあ、一緒に行こうか?」
「うん」
無理に会話を続ける必要はなかった。レオンがいるだけで、心が落ち着く。彼と共に過ごす時間が、今の自分にとって何よりも必要だった。
――しかし、そんな穏やかな時間は突然、破られることとなる。
その日の午後、突然、郵便物が届いた。ミレイユがそれを受け取ると、封筒の中には一枚の舞踏会の招待状が入っていた。差出人は……アラン・ベレスタイン。
「……舞踏会? まさか……」
ミレイユはその招待状を見つめ、言葉を失った。心の中で何かがざわつく。舞踏会……それは、彼女がかつてアランと一緒に行く予定だった場所だった。今、どうしてアランが招待してきたのだろうか。しかも、その招待状には、あまりにも馴れ馴れしい言葉が並んでいた。
『久しぶりに会おう。友人として、また会いたい』
「友人……?」
ミレイユの心に疑念が湧き上がる。その瞬間、隣で静かに座っていたレオンが、ふと顔を上げた。
「行かなくていいんじゃないか?」
「……でも、私は、ただ友達として、彼と再会したいだけなの」
「本当に、友達として?」
レオンの声には、抑えきれない疑念が含まれていた。その目に、わずかな怒りが滲んでいるのをミレイユは感じ取った。しかし、ミレイユは何とか笑顔を作り、軽く肩をすくめた。
「だって、私はまだ彼ときちんと話をしていないもの。もしも、何か誤解があったなら、きちんと謝らないと」
「……君が、そう思うなら」
レオンは言葉を続けず、無言で立ち上がり、窓の外を見つめた。その背中には、何か遠くを見つめているような、複雑な感情が滲んでいた。
ミレイユはその背中を見つめながら、ふと思った。レオンは、どれほど自分のことを思ってくれているのだろうか。まだ、その気持ちに気づいていない自分を、どこかで悔いているような気がした。
その日、舞踏会の招待状が届いたことが、彼女の運命を大きく変えるきっかけとなることを、ミレイユはまだ知らない。