2-07 明日は時より謎の予報
時空の歪み、予知、既視感、並行世界、タイムトラベル――未だ科学で説明できない事象が、世界には満ちている。
高峰晶は、そんな『時間の謎』に立ち向かいながら、いつかの終点へと歩み出した。
意識の時間が、回り、周って、廻る。
これは今と過去を繋ぐ怪奇譚。
どこかで、誰かに聞いた台詞を思い出す。
「人生は砂時計と同じだ。
個々で形や大きさが違う。
寿命という名の砂が流れ落ちるまで、時間が止まることは決してない。
けれど何らかの理由で砂を減らすこともあれば、先んじて器が壊れてしまうこともある。
時の流れは残酷で、それ故に美しく、全てを底へと飲み込んでいく。
もし君が時間に囚われたいのであれば、新しい砂でもって穴埋めするか――落ちた砂を拾い上げ、また戻すしかない」
映画や小説で見聞きしたフレーズだったか、それともデジャヴの一種か。
人として生きている以上、死というのは避けようもなく考えるものだけれど、やがては他のことで気を紛らわせていく。
どうせ、いつかは死ぬ。それなら考えても仕方がないことだ、と。
人類は歴史の中で多くのことを悟った。
人生は砂時計のように逆さまにはならず、時間が常に一定ではないということも。
時計の針が刻む一秒と、人が認知する感覚の一秒が違うように。
僕は、いつからか錯覚していた。
人によって時間が平等でないのなら、ひょっとしたら死という概念も、単なる終わりではなく何らかの始まりなのかもしれない。
そう、あの日のように。
* * *
高卒一年目の初任給で、腕時計を買った。
今まで育ててくれた恩返しに。とはいえ給料全額とはいかなかったけれど、初めての値が張る買い物だった。
とんと物欲のない叔父さんだったから、何を貰ったら喜ぶのか結局は分からず仕舞で。そういえば「ここのベッドからじゃ時計が見れないんだよな」とか愚痴っていたのを思い出し、無難な腕時計にした。
退院したら身に着けてもらいたい――なんて願いも込めて。
けれど、そんな淡い期待は弾けて消えた。
昼休み明けの仕事中、急に病院から電話が掛かってきた。その不穏な会話を傍から聞いていた主任は、通話が終わるや否や「高峰、今すぐ行ってきな。仕事なんていいから」と半ば強引に僕を追いやった。
心臓の鼓動が、はっきりと聞こえて、鳴り止まない。
じんわりと頬が熱くなって、不意に息苦しさを感じ、僕は歩きながらネクタイを緩めた。
雲一つない春の青空が、何故だか黒みがかって見える。
頭の片隅に置いていた悪い予感。来るべき時が来た。そんな諦めにも似た感情。
きっと大丈夫、と何度も自分に言い聞かせたところで、目に見えない不安は重くなっていくばかり。
電車に揺られている間、僕は叔父さんのことだけを考えていた。
高峰廻。
今年で還暦を迎えた叔父さんは、僕が二歳の頃に引き取ってくれたらしい。
事故で両親が他界し、物心つく前の僕にとっては間違いなく育ての親で。後に両親の顔を写真で見せてもらったけれど、なんだか他人行儀のように実感が湧かなかった。
僕にとっては叔父さんこそが父親だ。けれど叔父さんは、決して僕に「お父さん」とは呼ばせなかった。
だから授業参観や三者面談の時に、実の親でないことを言うのが嫌で。顔も似てたから余計に。戸籍とか、血の繋がりだとか、本当の家族になったら関係ないじゃないか。
そんな嫌な思いをした日は、決まって夕飯がカレーだった。
リンゴとハチミツと、隠し味にヨーグルトを入れた甘口のカレー。
不機嫌だろうと腹は減るし、食欲が満たされれば、くよくよした理性は何処かへ飛んでしまう。寝れば記憶は薄まる。気持ち良いことが嫌いな人間は稀だ。そうして人は過去を乗り越えていく。
叔父さんは学校で習うことも、そうでないことも教えてくれた。
ひとり親だから家事は最優先で。中学二年の頃には一通り覚えさせられて、高校生にもなれば料理の腕は叔父さんにだって負けなくなった。
年に一回は山や海でキャンプをして、サバイバル知識まで叩き込まれた。
冠婚葬祭、役所関係の書類に、税金の諸々まで。むしろ、どうして学校で教わらないのか釈然としない。
多分、あの頃から叔父さんは『一人で生きていく力』を身に付けさせたかったんだと思う。
何を訊いても、答えや調べ方を教えてくれる。
口喧嘩で言い負かされたら、二日くらい落ち込むこともある叔父さんだったけれど。
僕は、そんな叔父さんに憧れていたのかもしれない。
通い慣れた総合病院の個室に、着いてしまった。
僕は喉の渇きを無視して、扉をスライドさせる。
「……悪いな、仕事中に連絡して」
背上げしたベッドに寝ていた叔父さんは、いつにも増して元気がなく。張りのあった声も掠れていた。
白髪に、薄い無精ひげが瘦せ細った顎のラインを際立たせている。
「いや、全然。どうしたの」
内心の動揺を誤魔化すように、僕は近くのパイプ椅子に座った。
「そろそろだと、思ってな。晶に、伝えておきたいことがあったんだ」
「何?」
叔父さんは身を乗り出して、軋むような仕草で僕の肩に手を置いた。
今にも閉じてしまいそうな半目で、真っすぐに僕を見て、叔父さんは口を開いた。
「お前は、俺だ」
一瞬、何を言われたのか分からなくて、頭の中が白く染まった。
それは一体、どういう意味だろう。
似たような境遇で、叔父さんは僕を自分のように重ねて見ていた、ということだろうか。
「そうじゃない」考えていたことを先回りした叔父さんは「同一人物なんだ」と続けた。
「こんな時に、笑えない冗談?」
「……だろうなぁ。俺も昔は、そう思ってたよ」
叔父さんは弱々しく口角を上げる。肩の荷が下りたかのように手を放し、再びベッドへと沈んだ。
「言っても信じられないよな、普通は。でも、こうやって言うしかなかったんだ。あの時の俺も」
うわ言のように呟く叔父さんは、窓の外を見やっては、しばらく目を閉じた。
何かを思い返しているのか、まるで決まりきった手順みたく息を吐いて。
「今は、それでもいいさ。いずれ分かってくる。嫌でもな。これから晶に降りかかる『全ての時間と謎』が、お前を作っていく。何をしたところで、どう転ぼうとも帳尻は合う。そうして、やがては俺になる」
息も絶え絶えながら、妙に確信めいた言葉だった。ここまで来た覚悟が、気が緩んでしまいそうになる。
叔父さんと会えるのも最期になるかもしれないのに。ふざけた話をしている場合じゃない。
僕は鞄を開け、プレゼントを取り出そうとしたところで「いい」と叔父さんが制止した。
「その腕時計は、お前にやるよ。俺の形見だと思って使ってくれ」
「……なんで」
「だから同一人物だって言ったろ? 大切な思い出だからな。何十年も経とうが忘れないさ。社会人として働いた一ヵ月、よく頑張ったな」
鼻の奥がツンとして、涙が出そうになったのを、なんとか堪えた。本当は違う形で褒められたかったのに。喜んで欲しかったのに。今まで家族として過ごした記憶が、どうして浮かんでくるんだろう。
疲れ切った叔父さんの顔が、寂しげに微笑んだ気がした。
「当面のことは、あさり先輩……じゃないか、成田主任を、頼るといい。彼女の『止まった時』を進められるのは、お前だけだ。逃げるなよ。ちゃんと向き合え。恩には恩で、返すんだ。信じてるからな。大丈夫、謎は解かれる為に、あるんだから」
「なに、を?」
止めてよ。そんな、矢継ぎ早に別れを言うような。眠る前の、繋ぎとめた意識のまま、喋らないで。
視界が、ぼやける。目の端から熱い液体が流れ落ちていく。
居なくならないで。
嫌だ、嫌だ、いやだ。
「あぁ……俺の……僕の、人生は……悪く、なかった」
「叔父さん!」
そうして僕は、唯一にして無二の肉親を失った。
叔父さんの死因は、多臓器不全と診断されたものの、実際は『老衰』に近いらしい。まだ還暦である患者に、医者は首を傾げていた。
どこか浮世離れして、ざわざわと気持ちが落ち着かない。
叔父さんの勤めていた会社や知人にも連絡しようと思い、スマホを見たのだけれど、アドレス帳には僕の番号しか入っていなかった。
家族葬と役所への手続きに追われる。親が亡くなったばかりだというのに、喪失感にすら浸らせてくれない。幸い、家のローンは返済済みで、叔父さんの資産は僕が働かなくても数年は食うに困らない金額を残してくれていた。
そういえば、叔父さんは何の仕事をしていたんだろう。こんなことになるなら、しっかり話し合っておけば良かった。いくら後悔しても足りないな。
あっという間に会社の忌引き休暇を使い果たして、僕は仕事に復帰した。
ご迷惑をお掛けしました――開口一番、成田主任に頭を下げるも、「無理はしないでね。どうしても辛かったら上に掛け合ってでも休ませてあげるから」と慰められた。
「ありがとうございます。困ったら頼らせてもらいます」
「うん。高峰は期待の新人だからね。気持ち良く働いてもらわなきゃ」
そう言って成田主任は自分のデスクへ戻っていった。踵を返した時に、栗色のポニーテールが揺れる。
その低身長は、まるで小学生のようで。化粧をしても童顔までは隠し通せていない。
叔父さんが最期に残した言葉を思い出す。
全ての時間と謎が、僕を作る。
その本当の意味を――僕は、これから知っていく。