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2-20 京都帝國大學工學部 超越化學講座

時は大正、大戦が終わりそこはかとなく不景気の兆しが見え始めた頃。私は京都帝国大学の「超越化学講座」を訪ねることになった。その道中、得体の知れぬ怪異に襲われたところを助けられた私は、その講座がこの世界に不正に持ち込まれた「未来の科学技術」に対峙するための場所であることを知る。大学どころか、国家レベルの機密を扱うその場所に、意図せず足を踏み入れてしまった私。


「まだ存在しないはず」の技術が飛び交うようになった京の都。

敵に対抗するため、別の未知の技術で応戦する講座の教授。

未知の技術を「観測」できるという特異体質であるらしい、私の体。


目立たぬよう気を配っていた私の学生生活は激動し、思わぬ方向へと舵が切られてゆく。この世界の、あるいは私の行く末はいったい。

 吉田の東の外れにある、「超越化學講座」の部屋を訪ねてほしい。


 海軍少将の伯父から書簡にてそう云われたので、私は講義もない時間に大学構内を歩いていた。家は伏見の方にあるが、電車は三条より先にはないので、そこからは歩いて大学を目指さねばならない。周りより少しばかり裕福な私の家であれば、何らかの手段で直接構内へ乗り付けることもできただろうが、両親はそれを許さなかった。


省太郎(しょうたろう)さんの便宜で通えているのだから、なるべく目立たぬように」


 父は私の話をすれば必ず、そう口にする。


 反抗するつもりはない。他の帝大に倣い、女子の入学が認められていない京都帝国大学において、男をよそおって通う私は明らかに異質な存在だ。実質的に女子を受け入れると謳った東北帝大でさえ、実際に通っていた女子が奇特の目で見られ、男子に反対運動を起こされるのを阻止できなかったのだから、私が女であること、それもただの伏見の呉服屋の娘であると知られて良いことは何もない。


「省太郎さんがこう云っているんだ、従う以外に道はなかろう」

「私のやりたいことができるのであれば、無暗(むやみ)に抗いはいたしませんよ」

桂子(けいこ)、なぜお前はそうやっていつも回りくどい言い回しばかりする」

「回りくどく言ったつもりはありません。ただ、意図が分かりかねるだけです」


 父は妻の兄にあたる榊原(さかきばら)省太郎少将の信奉者であり、同時に自身より頭の良いことが明らかな私を疎んでいる節があった。女は男よりも阿呆であるべきだとまでは思っていないだろうが、三高で青春を謳歌した身であり、それがこの国の学生として最も理想であると考えているだけに、高等師範学校から帝大へ進んだ私がより輝いているように見えるのかもしれない。ただの呉服屋の娘にそれほどの頭は必要ない。私が最初から家を継ぐ気であったならば、その考えにもうなずいていたことだろう。


「なぜお前のような小娘を、省太郎さんは大学へ……」

「師範学校を出て、より深く学びたいという意思を尊重してくださるというのは、先進的に思いますが」

「俺が前時代的だというのかッ」

「いいえ。先進的か前時代的かというのは、対の言葉ではありませんよ」

「つくづく、お前は人を馬鹿にしたような言葉遣いを……」


 少将が懇意にしている、京都帝大の総長へわざわざ便宜を図るよう云ったというのが、より父を複雑な心情にさせているのだろう。私は単に、幼少の頃から初めて好きになった化学を学びたいと思っているに過ぎないのだが、少しばかり生まれる時代が早かったのかもしれない。




「こんな場所……来たことがない」


 さて、構内を半ば徘徊し、書簡と一緒に送られてきた手描きの構内図を眺めつつ、ようやく近くと言える場所までたどり着いた。そこは私の属する工学部ではなく、まだ新しい経済学部の学舎が立ち並ぶ場所であった。


 私はその時点で、目的地である「超越化學講座」とやらが憂き目に遭っているのではないか、と考えた。そうでなければ、このような知り合いの(ろく)にいない、工学部の領域ですらない場所に追いやられるはずはないだろう。となれば、変わり種の講座をおかっぱの奇妙な学生が訪ねたとして、却って私が目立ってしまわないだろうかと心配になる。伯父や総長は一体、何を考えておられるのか。


「……あるいは、『超越化學講座』は経済学部の配下なのか」


 その線も否定はできまい。そもそも工学部の所属であろうというのは、名前から私が勝手に連想したに過ぎない。経済学部の敷地にあるのだから、経済学部の所属と考えるのが当然である。しかし、どんなに頭を捻ったとして、経済学から超越した化学とやらを連想できる人間もまた、極めて少ないだろう。私は混乱するばかりだった。


「……よし」


 一人で悩んでも仕方のないことだ。伯父の希望はあくまで訪問までなのだから、怪しい、胡散臭いと感じれば引き返し、伯父や父にはそれらしい報告をすればよい。私は一歩踏み出し、経済学部の敷居をまたいだ。その刹那だった。



「セ寄越……ヲ肉……ノ人間……肉……」



「なッ……」


 眼前に突如として、人間らしき何かの影が浮かび上がった。煙がゆらりと立ち上がるように現れたそれに驚き声を上げると、それがこちらへ近寄ってきた。明らかに人間、ではない。人間の姿形をしていながら、その正体がまるで人間とはかけ離れていると、瞬時に看破できるほどの違和感を孕んでいた。


「クレ……肉……」

「に、逃げ……ッ」


 人間の肉を食うなど尋常ではない。怪異の類と評するべきそれが、こちらへと確かに地面を踏みしめ歩いてくる。しかし逃げるに逃げられなかった。足が動かない。誰かにつかまれ、地面に向かって引きずり込まれているような感覚があった。生きるか死ぬか、その狭間に自分が立たされていることを明確に感じているのに、体は死後硬直の如く微動だにしなかった。否、微動すらできなかった。そこで初めて、私自身が恐怖を覚えているのだと理解した。



「……そのまま、三つ数えるまで動かないこと。三、二、一……」



 対して私の背後から突如聞こえた低い声は、はっきりと日本語として理解できるものだった。声の主が誰かと振り返る間もなく、その処置は完了した。ばさと鋭利なもので切り捨てるような音がしたのち、私の目の前で異形が二つに裂け、澱んだ空気がさあと澄んでいった。悪い夢から醒めたような心地だった。よし、と声がかかったので、私はようやく背後を振り向いた。


「怪我は?」

「いいえ」

「君が鳥羽(とば)桂子か……女子であることを隠しつつ通っているという」

「……っ!」


 着物と羽織に身を包んだその男性は、話しぶりから只者でないことが分かった。私が女であることが明らかになったところで、命を狙われるわけでも、放校になるわけでもないはずなのだが、最初から知られていることには違和感がある。


「……来たまえ。君は『見える側』の人間らしい。少将殿に総長殿、揃って君を推薦してきた理由が分かった気がしたよ」


 男性はそのまま、私が向かおうとしていた方向へ私を導く。手元の地図を参照しながら追従すると、「超越化學講座」と大書された表札の前へたどり着いた。どうやらこの講座の主であったらしい。


「……貴方は」

吉峰(よしみね)。この地に未開の学問を拓かんとする、奇人ということで通っている」

「その学問が、『超越化學』……と?」

「少将殿や総長殿は、どうやら君を私の部下……即ち、助手として引き入れさせるおつもりのようだ。そのような話は?」

「いえ、……全く、聞いておりません」

「困ったものだ……帝国の機密事項も、大いに含んでいるというのに」


 吉峰先生――ここでは、彼を先生と呼ぶのが相応しいだろうからそうするが、先生は部屋の奥でかたかたと動き続ける機織りを指差した。絹でも織っているのかと思ったが、それにしては透明で、かつ繭を茹でた時の独特なにおいもなかった。代わりに病院の空気に近い、化学臭が漂っていた。


「あれは、――後にナイロン6,6と命名される人工繊維だ。私が扱うのはあのような『未来の』技術。日の目を浴びていないわけでも、いずれ掘り起こされるであろう過去の技術でもない。まだ概念すら存在していない、未知の世界だ」

「……っ!」

「何者かが、我々の時代を歪めるために、数十年先の世界から時間遡行し不正に技術を持ち込んでいる。先程の異形もそう。遺伝子、すなわち人間の体の部品を組み替え作られた、いわば人造の怪異だ」


 千年と国の都であったこの地で怪異と遭遇した瞬間、私は全く不可思議ではないと思ったのだが、そうではないらしい。身に迫る現象が、未来の者の悪意によって形作られている。その実体こそ上手く掴めなくとも、少なくとも今後、私たちの生活の平穏が保障されぬ日が到来するであろうという予測は立てられた。


「只の学生を引き入れてどうするのかと思っていたが、君には期待できると、総長殿はおっしゃるようだ」

「そのような重荷を、私に担えと?」

「今ならここで引き返すことは可能だ。しかし公には私の講座は存在しないし、未知の技術も並の人間には見えないようになっている。それらを知覚できている時点で、君の『不幸』は既に始まっていると言ってもいい」

「私の……不幸」

「それでも帰る、聞かなかったことにするというのなら、君には今日の一連の記憶を失くしてもらう必要がある。少し、痛い目に遭わねばならない。そしていつしか私の目の届かぬところで漏出した技術に襲われ、絶望的な不幸と失意の中、命を落としかねない。同じ不幸ならばより小さくより救いに近いものを、と私は思うがね」


 私は先生に向き直った。否、向き直さざるを得なかった。たとえ先生の言葉が脅しそのものであったとしても。伯父の書簡に応じてしまった時点から、始まっていたのだから。

 先生の差し出してきた手に私はたじろぎ、数瞬ためらった後、恐る恐る手を差し出す。先生と握手を交わし、それが契約となった。



「……改めて、ようこそ。現在と、未来を守るための研究へ」

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