2-01 汝は聖女なりか
少子高齢化が進んだ社会で教職に努める那賀川
彼の受け持つ田舎の学校には七人の生徒が在籍していた。
何の変哲もない日常が始まるはずだった。
教室で殺害されている美しき少女。クラス全員、那賀川を含めて彼女を、綾間詩織を愛していた。学校内には那賀川を含めた七人。その全員が物理的には殺せても、心理的に殺せるはずがない。
その時に生徒の一人が言った。
「そう、愛の証明だよ。全員が詩織への愛を語ろう。彼女を愛していなかった人が二人以上いるとは考えられない。あんなことまでしたんだよ。全員が見ている中で、それは盲失的な愛をもっていないとできない」
愛の証明をするために全員が詩織への愛を語り始めた。
その日は、ざあざあと雨が降っていた。那賀川はそろそろ授業が始まる時間だということを二十年近くの経験から理解していた。時計を見ると、授業が始まる八時三十分の少し前。今から教室に向かって歩けばちょうどチャイムがなるだろう。スーツをピンと張り直し、パソコンの電源を落としてから立ち上がった。職員室には当然のように那賀川以外には誰もいない。タバコに火を灯しても何も言われなくなったことだけは、幸福だった。
教員と子供が現状し続けた結果、政府は教員の資格をかなり易しくし、本来は専門職であった中等教育以上の教師を、小学校と同じように全教科を一人の教師に負担させることで解決したように見せた。数年前までは同じ場所で小学校教師をしていた那賀川は小学校の廃校に伴い、この学校を一人で任された。
廊下は静かだった。木造だから一歩を踏み出すごとにギシギシと足元が音を立てて少しだけ心配な気持ちにさせてくる。この学校の職員室、その窓からは学校への唯一の出入り口である正門が見える構造になっているから、生徒全員が既に登校し終えていることはわかっている。書類仕事もほとんどないようなものだから、八時前に登校してコーヒーを飲みながら煙草を吸うことが楽しみだった。
いつもと変わらない、那賀川は何も考えずに教室のドアを開いた。そこには、普段通りの光景が広がっている、はずだった。
「先生……」
教室の窓、その外に降る雨がより強くなって叩きつけてくるようだった。雷が落ちた。その瞬間に事切れるように教室の電気が落ちた。そのせいで教室の中にある色が全て暗く変化する。黒板は真っ黒に、机は茶色をより濃く、床に散らばった赤色の血はよりどす黒く変色する。
教室の中央には、一つの遺体があった。医学に対する知識なんて何もない自分でも、暗い視界の中でもそれがもう命なんて持っていないことはすぐにわかった。まるで屋根が、壁が全て消えてしまったかのように感じる。自分の体に皮膚の下に直接、雨が降り注いでだんだんと体温を奪っていくようだ。歯がカチカチと音を鳴らしているのが、どこかから聞こえてくる。それが自分から発せられているのかもわからない。全員の顔を見渡した。いや、もう頭ではわかっていた。自分が担当するクラスにいる髪の長くて綺麗な女はたった一人で、床に倒れている遺体の頭部からは木目をなぞるように真っ黒で艶のある髪が散らばっていた。その髪は遺体の後頭部から溢れた血だまりを吸い続けていた。
「どういうことだ? 何があった」
務めて冷静に、誰の顔も見ないようにしながらそう言った。しかし、答えはなく沈黙がより全員の喉を押し潰す。その空気がすべてを物語っていたけれども、その答えを求めてもう少しだけ、深い声でわかりやすく言った。
「誰が詩織を殺した?」
床に倒れているのは綾間詩織。彼女が今日も元気に登校してきた姿を那賀川はその目で確かに見た。その後に順番に生徒たちが登校してきた。つまり、詩織の後にここにいる全員が登校してきたことになる。この中の誰かが詩織を殺した犯人。それは間違いがなかった。ここにいる全員が彼女を愛していた。深く、深く愛していた。その愛を全員が共有していた、はずだった。
電気が復旧する。ぱちんぱちんと何度か頭上で音が鳴って、うすぼんやりと明かりがついた。視界に鮮明に写し出されたのは詩織の遺体。死してなお、痛みに苦しんだはずなのに関わらずその表情は綺麗だった。家族に見守らて死んでいった妻の顔を思い出した。全員がその安らかな笑顔を愛していたはずだった。床に散らばった黒い髪、それも全員が愛していた。ここにいる全員が確かに彼女を愛していた。
しかし、状況から見れば間違いなくこの中にいる誰かが彼女を殺した。誰かが、この中にいる誰か。中学生にもなれば男女間の力関係は明白で、誰もが理屈の上ならば体の強いわけでもない詩織を殺せただろう。しかし、それはできないはずだ。詩織を愛してたなら、それに手をかけるなんてことはできるわけがない。
それは同じく詩織を愛していた那賀川には理解できる。
「なら、誰が詩織を愛していなかった?」
この中にいる裏切者は誰だ。ごくりと唾を飲むと、喉の奥にある腫れにぶつかって痛みが喉の奥からだんだんと体中に広がっていく。その質問をした途端、教室の空気は変わった。誰も彼もが下を向いている。この中に詩織を愛していない人間なんているはずがないのに、誰もがそれを心で経験で思い出で自分の抱いている感情が隣にいる他のクラスメイトと同じだと理解していたのに、頭は誰かが詩織を殺害したことを理解している。
「愛の証明をするしかないよ」
ぽつりと誰かがそう言った。それは赤嶺だった。放たれた言葉はどこへ向けられているのかもわからずに、ただ全員の胸を刺して、殴って、納得させた。
もう一度、綾間詩織だったものを網膜に映す。脳に彼女が死んでいるという事実を神経が伝えるけれども、それを何かが押しとどめようとしている。彼女は死してなおも美しかった。もともと、こんな田舎では見られないほどに美しく白い肌がその内側に眠るどす黒い血が、彼女の中にもこんな汚い色をしたものが存在したのかと思うほどの汚らわしい血が溢れているせいで、より白く見える。
雷が落ちた。照らされたのは、青白く光る詩織の顔だった。
彼女と最後に触れたのはいつだっただろう、彼女と最後に言葉を交わしたのはいつだったのだろう。最後に彼女の奥にまで触れたのはいつだろうか。すべて自分が始めたことで、誰かがそれを終わらせた。そして、その人物を探すのに赤嶺はその言葉を使った。
「愛の証明?」
「そう、愛の証明だよ。全員が詩織への愛を語ろう。彼女を愛していなかった人が二人以上いるとは考えられない。あんなことまでしたんだよ。全員が見ている中で、それは盲失的な愛をもっていないとできない」
赤嶺の言葉はもっともだった。いつも冷静で、どこかクラスを俯瞰してみているところがある。ただ、そんな赤嶺でも魅了するほどに詩織は魅力的だった。普通の環境なら、きっと女に興味なんてないように斜に構えているような生徒だろう。教師生活の中で何人もその面影が重なる生徒はいた。
だけど、その仮面も詩織の前にはどろどろに溶かされてしまう。全員の前で自身の内側に眠る欲望を愛に包んで詩織のその細く白くて今にもぼろぼろと壊れてしまいそうなガラス細工のような体にぶつけているのを知っている。その光景を、自分の記憶を疑いたくはないけれど、事実としてのしかかる。
しかし、それに宮藤が声を荒げる。
「そう言うお前はどうなんだよ。俺はお前が一番、怪しいと思ってる」
突然、発せられた大声に教室中の空気が震えた。宮藤の言葉はもっともだった。赤嶺はあまりにもかしこすぎるところがある。それは宮藤の言うように、愛していなかった可能性もある。愛を偽れる可能性すらもある。生徒を信じたい気持ちは持っているけれども、演技は赤嶺がうまいように感じる。教室に沈黙が降りる。宮藤の言葉に赤嶺は言葉を詰まらせた。しばらくたって、ゆっくりと口を開く。
その口からは信じられない言葉が発せられた。
これは七人の綾間詩織への愛の物語である。