第64話 擬態生物
森の方から聞こえた獣の咆哮。俺の後方だ。
そして、なにか重たい足音が、少しずつペースを上げてここに近づいてくる。草木を押し退けて。重機のような唸り声を上げながら。
そして現れた。森の中から飛び出したのは――――巨大な熊だった。
茶色い毛並み、巨大な体躯で額には、地面を割る深い亀裂のような傷痕が走っている。
その痕を見てすぐにわかった。この熊は、俺がこの世界に来て初めて体験したゲーム『サバイバルウォーカー』で俺を襲った熊であり、ゴスロリアニマルランドで弱っていたところを俺たちが助けた熊だ。
唸りを上げて牙を剥く傷痕の熊。両前足を振り上げ――――茶色コートに獰猛に襲い掛かる。
熊が鋭い爪の伸びた太い前脚を茶色コートに振り下ろした。
茶色コートは大斧で受け止めるが、大きく後方に突き飛ばされる。転倒こそしなかったものの、地に着いた両足が柔らかい土の地面を深く削った。
その後、両者は完全に静止する。互いに牽制し合う睨み合いが始まった。
茶色コートと傷痕の熊の戦闘における実力は均衡しているのか。なんにせよ熊は俺を襲いに来たわけではないらしい。というより、この熊は俺を助けに来たのかもしれない。
そう思う理由は熊が現れたタイミングもあるが、今俺の目の前で熊は、俺に背を向けた状態で、俺と茶色コートの間に割って入るような位置で奴と牽制を続けているからだ。単なる見え方による思い込みかもしれないが。
両者のうち、先に動き出したのは茶色コートだった。大斧を構えて熊に向かって走り寄り、そのまま盛大に斬りかかる――――わけではなく、熊の真横を素通りしていった。そうして走り続け、茶色コートは暗い森の中に駆け込んでいった。
少し遅れて傷痕の熊が振り返る。熊も茶色コートの後を追うように森の中に駆けていった。
辺りに静寂が流れる。
「逃げた…………のか?」
思わぬ形で目の前の脅威が消え去って俺は茫然とした。そして我に返り、今自分がするべきことを思い出した。
「ッ! イヌヌ!!」
俺はイヌヌの元に駆け寄った。切り倒された大木の切り株の前に力なく横になっていた彼女に近づき、肩を揺らす。
「ぅ……うぅ……」
イヌヌは小さくうめき声を漏らして薄目を開いた。
「イズミ…………」
「大丈夫か?」
「うん、ちょっと頭打ったみたいで、気絶してただけ」
そういうとイヌヌは自力で立ち上がった。そのことからもわかるようにイヌヌは深刻な怪我は負っていないようだった。
「茶色コートはどうなったの?」
イヌヌはキョロキョロと辺りを見渡しながら尋ねた。周囲の状況はというと、茶色コートとの戦闘の末に農園に生えていた作物や果実の実る低木は蹂躙されて酷く荒れ果てていた。
「茶色コートは……逃げていったよ。突然デカい熊が森の中から現れたんだ。茶色コートはそいつに襲われて、それで森の中に逃げていった。栄養促進機を壊すなら今がチャンスだ。また奴が戻って来るかもわからないしな」
「ふーん…………」
イヌヌはどこか興味なさげな様子だった。いつもはテンション高めなイヌヌだが、今は元気がない。頭を打ったせいでまだ意識が朦朧としているのか。とにかくイヌヌはそれ以上この件について追及してくることはなかった。その代わりに、違う質問が飛んでくる。
「ルンちゃんはどこ?」
「――ッ!」
言われて思い出した。いつの間にかいなくなっていたルンの存在を。
「ルーン! どこだー!?」
「ルンちゃーん!?」
俺はどこにいるかもわからないルンに呼びかけた。ルンがいないことに気づいたイヌヌも俺と同じく呼びかけた。すると、蚊が飛ぶような本当にか細い声で反応が返ってきた。
「はい……ここにいます…………」
小さい声だが、遠くからの声ではなかった。むしろ近くで発する声。俺たちの手が届く範囲くらいの近さ。
「どこだ?」
「ここです……」
俺は確かめるように再び呼びかけ、その反応から声のした位置を特定した。俺がいた位置から左に二歩進んだところだったが、その場には誰もいなかった。いなかったが、
――声がしたその空間に薄く、人の輪郭の影が現れた。
半透明の影は徐々に色味と濃度を増していき、俺たちが探していた少女の姿へと変化する。
「ルン!?」
俺のガルムに小突かれて半透明化が治っていたはずのルンが再び透明の姿に戻っていた。
「なんでまた透明に……?」
「はい、隠れてました……透明になって」
体の前で手を組んで、周りの目を気にするようなおどおどした態度で答えるルン。
「透明になるって、どうやって? 透明化は治ったはずだろ?」
「あの、わからないんですけど…………隠れなきゃって強く思ってたらいつの間にか透明になっていて。元に戻る時は自分の意志で戻りました。今なら自分の意志でまた透明状態にもなれそうです」
「どういうことだ…………」
透明になってしまったわけではなく、自分の意志でそうできるらしい。俺はルンの体に何が起きているのか理解できずに頭を抱えた。
そんな一連の流れを傍観していたイヌヌが口を開く。
「なんか、カメレオンみたいだね!」
「――ッ! カメレオン!?」
俺はイヌヌの言葉を復唱した。その言葉がルンの身に生じた異変の核心を突くものに感じたから。
カメレオンは大きさや見た目はトカゲに近く、爬虫類に分類される生物だ。周りの風景に擬態できるというユニークな特徴を持つ。言い方を変えれば、カメレオンは透明になれる生物だ。
ルンの母親であるロンの日記の端の方には、「ルンは爬虫種」みたいなことが書かれていた気がする。
そしてルンは、何かしらの動物の要素を備え持つゴスロリアニマルだ。
これらのことから一つの結論が導き出せる。それは、『ルンはカメレオンの特性を持つゴスロリアニマルである』というものだ。
ルンが他のゴスロリアニマルと体の消え方が異なる理由は、ルンが食べた二つのアメ、空気の淀みによる消滅を防ぐ効果のあるアメの副作用のようなもののせいだと考えていたが、違うかもしれない。
赤と青、二つのアメのうち一方は消滅を防ぐアメ。もう一方はゴスロリアニマルの持つ特性を誤作動させるエラーを起こす効果のアメ、というのが新しい推察だ。
ルンというカメレオンのゴスロリアニマルの持つ特性である『擬態』がアメの効果によってエラーを起こしたせいで、ルンは自分の意志にかかわらず消えたり現れたりを繰り返した。そこに現れた俺の持つガルムに殴られたことでエラーが消えて正常な状態に戻った。という――――
「そ、そんなことより」
ルンの声が俺の思考を遮った。
「そんなことより、あれ、壊さなくていいんですか? あの茶色コートの人が返ってきてしまうかもです…………」
怯え混じりのルンが指し示したのは俺たちの破壊目標である憎っくき機械だった。
「そーだね。早いとこ終わらせちゃおう!」
イヌヌが機械の方に歩を進めた。
そうだ。今はルンの消えた理由を考えるよりも優先すべきことがある。
俺とルンもイヌヌの後に続く。
機械の前で俺たちは横一列になったところで、俺は二人に声を掛けた。
「じゃあ、行くぞ」
「はい」
「どぞ~」
二人の返答を聞いた俺は最大限に巨大化させたガルムを振り上げ、そして、栄養促進機の中心に全力で振り下ろした。




