第4話 これは武者震い
…………て……起き…………ミ……………………
「イズミ起きて!!」
イヌヌの甲高い耳障りな声で目が覚める。地面に横になった俺の目の前で子豚が飛び跳ねている。
「うるっさいな……なんかあったのか……?」
「今日はサバイバル2日目だよ! さ! 探検しよ!」
「探検……?」
騒いでいるから何か緊急事態でも起きたのかと思えば探検がしたいと。悪いが探検なんてお断りだ。
硬い地べたで寝たせいで、昨日の探索で溜まった疲労が全くとれていない。その上、昨夜イヌヌを蹴り飛ばそうとした際に足をケガしてまともに歩けそうもない。何より探検なんてめんどくさい。水分も食料もある。これで三日間生き延びることなんか造作もない。探検がしたいなら、
「ひとりで行って来いよ、めんどくさい」
「えー、行こうよ! きっと楽しいよ! 行こ行こ!」
探検に行こう、と何度も繰り返すイヌヌ。いい加減しつこい。
「うるさいな、俺は疲れてんだよ」
俺は再び迫る睡魔に促され目を閉じる。
「…………つまんないの」
イヌヌがぼそっと呟く。それを聞き流して俺は二度寝の誘惑に体を預けた。
§
眩しい。目蓋を貫く強い光に眠りを妨げられた。
ゆっくりと目を開く。青々とした樹木の葉がそよ風に揺れている。
空を仰ぐと太陽が真上の位置まで昇っている。今は正午頃だろうか。寝起きでカラカラになった喉を潤すために水筒に手を伸ばす。
鼻を刺激する嫌な臭いがする。昨日汗をかいたしシャワーも浴びてないからな。獣くさい臭いをいったん思考の端に追いやって水筒の桃ジュースを飲む。控えめな甘味が喉を潤す。
「はぁ…………あれ」
そういえば、イヌヌがいなくなっていることに気づく。探検に行こう、とか言っていた気がする。独りでどこかに行ってしまったのか。
探しに行った方がいいのか。それとも行き違いにならないようにここで待っていた方がいいのか。…………動くのもめんどくさいしここで待ってようか。
俺はいつも通り楽な方を選択する。ふと、背後の森から草をかき分ける音がする。
「お、帰ってきたかイヌ――――」
振り返って俺は言葉を失う。そこにいたものは小さい子豚でも少女でもない。熊だった。
茶色い毛皮に覆われた巨体。額には大地を裂く亀裂のような傷跡が痛々しく残っている。周囲に漂っている獣臭はこの熊のものだったようだ。
俺はショルダーバッグを取り、立ち上がる。熊の虚空の瞳と目が合う。熊を刺激しないように目を合わせたまま静かに後ろに下がる。
5歩程下がる。このまま立ち去れそうだ。そう油断して緊張が解け、視線をわずかにそらした瞬間、熊が地響きのような低い唸り声を上げる。熊が静かに俺の方に歩み寄る。
――逃げろ!
全身の細胞がそう警告する。俺は熊に背を向けて走った。森に足を踏み入れる。地面が踏み固められた鬱蒼としたけもの道を進む。ケガした足が悲鳴を上げてまともに走れない。徐々にスピードを上げて俺に迫る熊。
――追いつかれる!
俺と熊の距離が縮まってくる。このままでは追いつかれるのは確実だ。どうにかしないと――――
左前方の草むらをかき分けて細い獣道から外れる。その先に、おそらく土砂崩れでできたであろう急斜面が広がっていた。スキー場の頂上から下を見下ろすようにはるか遠くまで傾斜が続いている。
背後から唸り声が聞こえる。この斜面に飛び込んで滑り降りる以外の選択肢はない。
俺は迷うことなく斜面に飛び込んだ。最初は滑るように下りていたが、次第に体が跳ねて転がるように斜面の下まで落ちていった。全身を何度も地面に打ち付けながら。
斜面を転げ落ちる間は一瞬のことだったが、永遠に続くのではないかと思わせるほど永く感じた。平らな地面に投げ出されてようやく永い時間が終わる。
軋むような全身の苦痛をこらえて斜面を振り返る。あの熊の姿はどこにもない。なんとか振り切れたようだ。ひとつ安堵する。
軋む体で立ち上がる。斜面に全身を打ち付けたが致命傷は負っていなかった。もうひとつ安堵する。
昨夜、寝具を蹴りつけて痛めた足は少し痛みを増していたが、ここはこんな足でも逃げ切れた自分に称賛を贈りたい。
辺りを見渡す。斜面を下りてすぐのところは開けていたが、その周囲は深い森に覆われていた。我武者羅に木々の合間を走ってきたので焚火のある拠点への帰り道が分からない。
今の所持品はショルダーバッグに詰めた水筒と艶やかなホットドッグたちだけだ。これだけあれば充分だが欲を言えば護身用の武器が欲しい。たった今襲ってきた熊のような野生動物と対峙する際に武器があった方が好ましい。昨日作った貝殻の斧が武器になったかもしれないが、あいにく拠点に置いてきてしまった。
「武器、武器………………あ」
このサバイバルゲームが始まる前、天の声に貰った物を思い出す。俺はズボンのポケットに手を突っ込んだ。
「――――あった」
ポケットから手の平サイズの小さいハンマーを取り出す。
たしか名前はガルム=パンクだったはず。ガルム…………こんなちんけなハンマーには重苦しすぎる名だ。せめてこれが、もうちょっと大きかったらなあ…………
――ドッ!
「うわっ!!」
突如、ガルムが人の背丈ほどの巨大なハンマーに変化する。目にも留まらぬ速さで膨らむように大きくなったハンマーは武器として扱うのに調度いいサイズになった。
「もしかしてこれは…………縮め!」
ハンマーが縮小して手の平サイズに戻る。
「膨らめ!」
ハンマーが巨大になる。
これで確かになった。このハンマーは自分の意志で自在に大きさを変えられるハンマーだ。懸念要素だった護身用武器の確保も完了した。ありがとう天の声。ガルム、大切にします……………………ッ!
ふと、急斜面の上の方で嫌な唸り声が聞こえたような気がした。恐怖がフラッシュバックし、全身の血の気が引く。
俺は斜面から遠ざかるようにその場を離れた。灰色の分厚い雲が空を覆い、大粒の雨が降り始めた。
それから俺は行く当てもなく、ただ熊から遠ざかるために歩き続けた。拠点にも帰れずイヌヌとははぐれたままだ。降り出した雨はいつの間にか豪雨になっていた。ただでさえ見通しの悪い森の中で白い靄が発生し、視認性はさらに悪化する。くたびれた足で歩き続ける。辺りは暗闇に包まれる。すっかり夜になっていた。
雨水が服に浸み込んで冷たい。どこかで雨宿りしよう。凍える体で周囲を見回す。
「………………あれ」
森の奥でなにかが動いた。妙な胸騒ぎがして俺は樹木の裏に身を隠す。
ゆっくりと木の裏から覗いてみると、草木をかき分けて進むなにかの姿を捉えた。目を凝らす。
――――俺は自分の目を疑った。そこにいたものはまさに化け物だった。
黒く長い体毛に覆われた二足歩行の体躯。一応人型ではあるが人間と比べると体の大きさの比率があまりにも乖離していた。太く短い手足に大きく膨らんだ腹。人の4倍ほどの巨大な頭には広く裂けた口があり、剝き出しの鋭い歯がずらりと並んでいる。歯の隙間からは血が滴り、深い体毛の奥から生気のない瞳がうっすらと覗く。太い手には動物の足のようなものが握りしめられていた。
俺は木の裏で息をひそめて奴が去るのをやり過ごす。周囲には吐き気を催す血生臭いにおいが漂っていた。その臭いに、奴の足音に、冷たい雨水に全身の震えが止まらない。顎が震えてガチガチと音を鳴らす。
しばらくすると化け物の足音は遠ざかっていった。
「はぁ…………よかった…………」
静かに安堵のため息を漏らす。
何だったんだあの化け物は。あんな化け物がいるなんてイヌヌに聞いてないぞ。こんな森の中で一夜を過ごさないとならないなんて。昨日の平穏なサバイバルライフが恋しく思える。とにかくあの化け物に合わないようにしないと――――
「きゃあぁぁーーーー!!」
誰かの悲鳴が響き渡る。女の子の声――――きっとイヌヌだ。
俺は考えるよりも先に声の出所へ駆ける。
樹木や低木の間をすり抜けて進むと、草木の生えていない開けた空間に出た。そこから見えたのは樹木の根に足がはまって動けずにもがいているイヌヌと、そこに近づく例の化け物。
なんでイヌヌがこんなところにいるんだ…………まさか俺を探して?
理由は何であれ、イヌヌに会えたことで俺の中に一筋の光が射す。体の震えは止まらないが、俺がやるべきことはひとつだ。
ポケットからハンマーを取り出す。
「膨らめ!」
ハンマー、ガルム=パンクが巨大化する。
戦闘サイズになったガルムを構えて化け物の背後に忍び寄る。
――――ッ!
化け物が振り返る。気配で察知されたのか。虚ろな瞳が俺の姿を捉えた。俺の体はメドゥーサに睨まれたかのように固まってしまう。
化け物が体毛に覆われた太い腕を伸ばして俺の腕を掴む。俺の体が宙に浮き、そのまま遠くの木まで投げ飛ばされる。背中を木に打ち付けて鈍い振動と熱が広がった。
化け物がこちらに近づいてくる。息がうまく吸えない。体験したこともない痛みは極度の疲労感に似ていた。体が動かない。
化け物が大きく裂けた口から赤黒い液体を滴らせる。俺はこいつに食われて終わるのか………………
「イズミ! 逃げて! 僕を置いて逃げて!!」
イヌヌの声だ。イヌヌが化け物に石を投げつける。俺の方に歩を進めていた化け物の動きが止まり、イヌヌの方へ振り返る。踵を返し、今度はイヌヌの方へ進みだした。
――なにやってんだよイヌヌ。お前だってまともに動ける状況じゃねえだろ。そんなことしたら、お前が食われちまうだろ。
俺は立ち上がる。鈍痛に苛まれた体に力を込めた。近くに転がっていたガルムを手に取る。
化け物はひたすら石を投げつけてくるイヌヌに全神経を持っていかれている。これはチャンスだ。今度は失敗しない。
再び化け物の背後に迫る。俺に気が付き、奴が振り返った。体毛の隙間から瞳が覗く。今度は迷うことなく奴の頭にガルムを振り下ろした。
――ガンッ!!
鈍い打撃音とともに化け物の頭頂部が少しへこむ。目のふちから血が飛び散る。化け物は地面に崩れ落ちた。
「…………倒した……」
巨大化したガルムをミニサイズに戻してポケットに押し込んだ。薄気味悪い化け物の死に姿を見て、再び恐怖心が煽られ体が震えだす。俺は重たい体を引きずってイヌヌの元へ向かう。イヌヌの足首が地面からせり出した木の根に挟まっている。イヌヌが俺の方に目を向けた。
「イズミ、だいじょうぶ?」
「ああ、俺はなんとかな。お前は?」
「うーん……この足が抜けなくて。ちょっと手伝ってくれない?」
イヌヌと共に、俺はイヌヌの足を力いっぱい引っ張る。足が抜けることもなく、ただイヌヌが痛がるだけだった。
「やっぱダメかぁ……」
「なんでそんなとこにはまったんだよ…………ていうか豚の姿になれば抜けるんじゃね」
「ああ! その手があったか!――――って誰が豚だ! 犬だよイヌ!」
イヌヌが豚の姿に変化して小さくなった足であっけなく木の根から抜け出す。再び人型に姿を戻した。
「はぁ、これで一安心だな…………で、なんで拠点からいなくなったんだよ」
「ごめんね、どうしても森の中を探検してみたくて……それで、気づいたら迷っちゃって」
きまりが悪そうにうつむくイヌヌ。イヌヌなりに反省しているらしい。元を辿れば俺がイヌヌの探検に付き添わなかったのが悪いのに。
「いや、あれだ……俺の方も、悪かった……………………この森、めっちゃ不気味だったし」
「え!? イズミ、もしかして怖くて震えてたの?」
「っうるせえ! どうせお前だって子豚みたいに震えてたんだろ!?」
生意気なイヌヌをミニガルムで小突く。
「あっ、そーいえば」
頭を突かれたイヌヌが何かを思い出したかのように緑色の葉を俺に差し出す。
「なにこれ?」
「傷に効く薬草だよ! イズミ、足をケガしてたみたいだったから薬草を集めてたんだ。たくさん取りすぎちゃったからさっきの戦いで負った傷も治せるよ!」
イヌヌに言われて足を負傷していたことを思い出す。時間経過で痛みが治まっていたが、今の戦いで足に負担をかけたせいで痛みが増していた。
イヌヌが古めかしい白い本を手に取り、ページをめくる。
「この葉をそのまま食べればケガの治りが早まるみたいだよ」
イヌヌ、もしかして俺の足を治す薬草を集めるために探検に行こうと言っていたのか? バカで単純な奴だと思ってたけど、意外と俺のケガに気づいたりする洞察力と聡明さを備えているのかもしれない。
「…………ありがとな、イヌヌ」
「うん! 明日からは一緒に行動しようね!」
俺はイヌヌに言われたとおりに薬草を飲み込む。これを食べて一晩寝れば体の傷や不調が癒えるらしい。
いつの間にか雨は止み、辺りは月明かりに包まれていた。森に散りばめられた雨の水滴が月の明かりを反射して煌めく。俺とイヌヌは木陰の草むらに隠れて静かに眠りについた。